「私的な定義を尊重する」を読んでの雑感
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「思想の自由」の詳しい内容を自分は知らないが、多分「批判」することは「思想の自由」を侵害することではないだろう。「思想の自由」を侵害するというのは、権力とかを用いて強制的に個人の思想を変える場合に言うのではないだろうか。
しかし、「批判」(ないしは議論)自体にそんな強制力はない。Aの主張(定義)に「批判」がなされ、かつその「批判」が客観的にみて妥当であったとしても、なおAさんにはその主張を固持する自由がある(主張を変えないと命の危険があるとか職を失うとかするわけじゃない)。
そもそも現状「批判」なんて至る所(大学とかのアカデミックはもちろん、twitterとかですら)で行われているのだから、これらが全部「思想の自由」の侵害で憲法違反だと考える方が無理がある気がする
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例えば、「ラーメン」とは「アイスクリーム」であると定義して、
ラーメンとはアイスクリームである
アイスクリームは麺類ではない
したがって、ラーメンは麺類ではない
このように議論を展開し、「ラーメンは麺類じゃない」と主張するのはもちろん自由であるが、この主張に同意してくれる人はいないだろう。当然「ラーメン」で普通の人が思い浮かべるのは、あの麺類の「ラーメン」であって、「アイスクリーム」ではないのだから。
つまり定義が適切にできているかどうかというのは、その定義を用いた論証や主張の説得力に影響を与える。定義が適切にできていれば、論証や主張の説得力も増し、同意も得られやすくなるし、めちゃくちゃな定義をすれば説得力は減り、同意も得られない。あまりにひどければ相手にされなくなる。
そういえば以前discoの方で上のような「論証」の使い方の誤りを指摘されたことがあった。その時も言ったが、ここでの「論証」は「論理学」における厳密な意味での「論証」ではない。「論理学」では上のラーメン推論も適切な「論証」である(前提の真偽に依存しないので)
別に同意されなくてもいいし、相手にされなくてもいいというのであればどんなめちゃくちゃな定義してもいいだろうが……。じゃあその人は議論で何がしたいんだろう、と思う。
議論の権限付与#62123f2acc1fc10000722c8eを見て、ちょっと訂正。上の「その人は議論で何がしたいんだろう」というのは別に議論に目的が必要と言っているわけではなく、単純に「別に同意されなくてもいいし、相手にされなくてもいい」けど議論したい(主張したい)というが少なくとも自分はイメージしづらい、ということ う〜ん。これも誤解を招きそうだ。というよりうまく表現できてないいやあってるのか?
久住哲.iconが「目的」という言葉を使ったのは混乱の要因だろうと思う。
ramen.icon「目的」だと範囲が広いのかな?繰り返しになってしまうが、自分には単純に「別に同意されなくてもいいし、相手にされなくてもいい」けど議論したい(主張したい)という場合に、どういうケースがあるのかパッと思い付かない
つまり「別にめちゃくちゃな定義をしてもいいですけど、その分あなたの主張の説得力は落ちますよ?」というだけの話
思うに「うまく定義するように心がけよう」みたいなものを他人に促すのは限度がある。そんなこと言ってもできない人はできないし、できない時はできない。定義の食い違いだったり、不適切な定義のまま議論が進んでいたりするのであれば、それに気づいた人が声を上げて指摘するしかない(つまり「予防」ではなく「事後対応」)。その指摘が妥当であれば、その不自然な定義に基づいた議論の説得力は(ちゃんと)落ちるはずである。
そのような指摘がなされないまま議論がずるずる進んだり終わったりしてしまったのであるならば、それは見抜けなかった議論参加者全員の落ち度である