「実存は本質に先立つ」の意味
これは書物やペーパーナイフを考えてみればいい。ペーパーナイフは、その概念を頭に描いている職人の手によって作り上げられる。 よって、ペーパーナイフはある仕方で造られる物体であると同時に、一定の用途を持っている。
また、それによってペーパーナイフに関しては「本質は実存に先立つ」と言える。 ここでの本質は、ペーパーナイフを製造しそれを定義しうる製法や性質の全体のこと。
私たちが創造者としての神を考えるとき、神は優れた職人と同一視される。つまり、有神論者にとっては、人間という概念は神の頭の中で、人間がペーパーナイフを製造するように人間を造られた。
18世紀になって神の概念が廃棄され始めても「本質は実存に先立つ」という概念だけは捨てられなかった。
無神論的実存主義者はこれとは違って、たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在が一つだけある、それが人間──ハイデガーのいう人間的現実である──と宣言する。 実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずからそう考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。 つまり、人間の場合は、人間を造る神(ペーパーナイフを造る職人)がいないので、まず先に実存がある。さらに実存主義者にとって、人間は定義不可能である。「彼/彼女は〇〇である」という定義をその人自身が作っていくので、「人間は自らが作るところのもの」であるということ。
だからこそ、人間は石やペーパーナイフなどの本質が実存に先立つものよりも尊厳である。
また上を言い換えると、「人間は未来に向かって自分を投げるもの」であり、人間は「主体的にみずからを生きる投企」である。