「実在性」を「語れること」で置き換える
理解可能なレベルに近づけるために、無理な比喩を用いてみる。
『形而上学叙説』§13のカエサルの例や『形而上学叙説』§8のアレクサンドロス大王の例を見ると、次のようなことが言えるだろう:神がアレクサンドロス大王について語れるかぎりのことを語るとしたら、全宇宙のことを語ることになるだろう……と。これは、神が絶対的に完全であり、制限されるところがないからだ。ところで、「完全性」と「実在性」は同じような意味であり、神が「絶対的に完全」であるということがどういう帰結をもたらすかというと、まず、神が語り始めたならば全てを語り尽くすだろうということである。 これは難しい表現なので、分かりやすいように捻じ曲げてみる。
すると、「語れることは話題(subject)にされるものの中にある」と言えるだろう。
ライプニッツが話題になるとき、ライプニッツについて語れることは、ライプニッツの中にある。
どういうことだろうか?
もっと正確に言えば、ライプニッツを話題(subject=主語)にする人はライプニッツの概念を持っており、この概念の中には、ライプニッツについて述べることができること(述語)が含まれている、ということだ。しかし、人がライプニッツについての概念を持っているからといって、その人がライプニッツの全てを知っているわけではない。すなわち、彼の述べることができることは、彼の知識によって制限されている。つまり、彼のライプニッツ概念は「完全」ではない。ところで、もしも知識が制限されていない存在があったとしたら……
それゆえ、ものごとのつながりをよく注意してみるならば、アレクサンドロスの心にはいかなるときにも、これまで彼に起こったあらゆることのなごりやこれから起こるはずのあらゆることの兆し、さらには宇宙において起こるいっさいのことの手がかりさえもある、と言うことができる。とはいえ、それらすべてを認めるのは、神だけに許されていることである。
(ライプニッツ『モナドロジー 形而上学叙説』中公クラシックス、66ページ)
外の道で事故を目撃した人と、その事故について話を聞いた人とを比較してみよう
事故を実際に目撃した人は、その事故について色々と話すことができる
事故について話を聞いただけの人は、聞いた話しか話すことができない
「その事故を起こしたドライバーは怪我をしていた」と聞いた人は、「ドライバーは怪我したようだ」と言うことはできるが、「そいつは誰かを轢いたのか?」という質問には答えられない。
事故を目撃した人は、話を聞いただけの人よりも、事故について語ることができる。
自分の限界内で……すなわち、自分の立っていた位置と事故現場の位置との関係におうじて決まる視界であるとか、事故を眺め続けた時間であるとか、そういうものによって制限された中で、その事故について語ることができる。
ドライバーが怪我をしたこと、彼が人を轢いてしまったことなども分かるかもしれない。
事故現場を様々な角度から見ることによって、あるいは、他の目撃者から話を聞くことによって、話せることを増やすこともできる。
神は、自分と事故との位置関係や、自分がそこに居合わせた時間などに制限されず、あらゆる位置から・あらゆる事件において事故を見た目撃者のようなものだろう。
「実在性」とは、目撃者が語ることのできる諸々のことで、この例の場合は、「怪我人はいたか」とか「被害者はいるか」とか「どこで起こったか」とか「いつ起こったか」とかの諸々によって喩えられるかもしれない。
事故を見た人は、その人から話を聞く人よりも、話せることを多く持っている。
ただし、事故を見た人が可能なかぎり他人にその事故について話を聞かせた場合、話を聞いた人が、事故を見た人と同じぐらいだけその事故について語れるようになるといったことはある。
だが、事故について話すにしても限度がある。話せる内容にも限界があり、話自体にも時間的な都合などの限界がある。すなわち、人の話は常に制限されている。まして、人から話を聞いた人の認識はさらに制限されている。
私は素朴に考える:
アレクサンドロスが王でなかったとしても、アレクサンドロスはアレクサンドロスだっただろう。 しかし、本当は:
個体概念に「それが王である」という述語が内在しないならば、それはアレクサンドロスの個体概念ではない。
すなわち、述語が反対のものに転じても主語が同じものでありつづけるわけではなく、述語が反対のものであるということは、そもそも主語は別のものだったのだ、ということ。すなわち、「アレクサンドロスは王ではない」という述語は、アレクサンドロスについての述語としては間違いである、ということ。もしもそうでなければ、「アレクサンドロスは王ではない」と言うたびに、「王でなかったアレクサンドロス」が措定されることになるだろう。しかし、それは誰か?アレクサンドロスではないだろう。(もちろん、彼がまだ王になっていない時期はあった。幼少期など)
たしかに、アレクサンドロスという概念を分析しても王であるという要素は出てこない。思考の真理の次元では、アレクサンドロスが王であることの必然性はない。 しかし、事実の真理を完璧に知る神を想定すれば、アレクサンドロスの個体概念といったものも想定され、この個体概念には、彼が王であるということも含まれている。よって、神がアレクサンドロスについて語ったならば、必ず、アレクサンドロスが王になる場面も語られるだろう。