「外的対象がみんな空間的なものである」ことの証明
これはデカルトのやり方ではなかったかな。
カントもこのやり方で「外的対象がみんな空間的なものである」ことの証明をしたのだったか、記憶が定かでない
調べたのですがだいぶ違いました(笑)。『純理』(平凡社ライブラリー版、上巻)の「超越論的感性論 第一節 空間について 第二項 空間概念の形而上学的論究」に複数証明というか論拠が上がっているのですが一つ次のようなものがあります。
空間は、すべての外的直観の根底にある一つのア・プリオリな必然的な表象である。人は、たとえ空間のうちにいかなる対象も見いだされないということを十分に考えうるにせよ、いかなる空間も存在しないということについては、けっして表象することはできない。それゆえ空間は、諸現象の可能性の条件とみなされるものであって、諸現象に依存する一つの規定とみなされるものではなく、だから、外的な諸現象の根底に必然的にある一つのア・プリオリな表象である。(p. 150)
あとこれは正確に言えば、「外的対象がみんな空間的なものである」ことの証明というよりは、空間が「たんに直観の形式にのみ付着するもの」(同上、p. 150)= 「私たちの心の主観的性質にのみ付着するもの」であることの証明ですね。
ですから、上の証明 → 「空間は私たちの直観の形式であり、対象の性質ではない」 → 「(私たちの直観において捉えられる)外的対象はみな空間的なものである」という議論の順番だと思います。
すみません、改めて調べ直したらやはりありました。以下『純理』(平凡社ライブラリー版、上巻)の第二版「序論 Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別について」にある文章です。
しかし、判断においてのみならず、概念においてさえも、それらのいくつかのものがア・プリオリな起源をもつことは明らかである。物体という諸君の経験概念から、それが経験的にもっているすべてのもの、すなわち、色、硬軟、重さ、不可入性をすら、次々に除去してみたまえ。それでも、その物体(このものはいまやまったく消滅しているのであるが)がしめていた空間は残存するのであり、だからこの空間を諸君は除去することはできない。(p. 88)
これも正確には、「外的対象がみんな空間的なものである」ことの証明ではなく、空間がアプリオリなものであることの証明ですが。
あとちょっと気になったのは、こういうやり方での証明って、経験による証明なのかな
(想像という経験。)
想像力はこれはこれで『純理』のキータームだと思ったが、まったく覚えていない 『純理』的には、空間は実在の側のものではなく直観の形式であって、外的対象一般は経験によってしか与えられず、経験の素材を提供するのは直観であるから、外的対象はアプリオリに空間的なものである、というようなかんじだったかと思う