「偉い」と「すごい」
これは勉強することは偉いかから派生した話題である。「勉強することは偉いか」を書いていく中で、「すごい」というフレーズも使いたくなってきた。だが、この2語は近い所にあるものの、安易に代用可能ではない。この2語の位置関係をある程度考察しておく必要があるだろう、というわけでこれを書いている。ここでの考察はまた「勉強することは偉いか」に還元されていくことであろう。 さてこの二語を考察するために、野球の大谷翔平を例に考えてみたい。「大谷はすごい」、「大谷は偉い」、どちらも違和感なく使えるが、その意味内容は異なるだろう。「すごい」の方は、大谷の野球での成績について言われる。「本塁打王はすごい」「45盗塁、45本塁打はすごい」「WBCの時の大谷はすごかった」などである。一方「偉い」の方は、どちらかと言えば大谷の人間性に対して言われる。「賭博問題がある中で、休まず野球を続けている大谷は偉い」、「グローブを寄付した大谷は偉い」などである。ここに「すごい」を代入してみると、違和感が出たり出なかったりする場合もあるが、少なくとも意味内容は若干変わってくる。
これを勉強の方で考えてみても、同じような傾向はあって、「大学合格はすごい」、「大学合格は偉い」、この場合は「すごい」の方がより適切であろう。なぜなら大学合格というのは一つの業績だからである。ここで「偉い」を使ってしまうと、発話者の価値観やイデオロギーが反映されたある種のいやらしさが出てしまう。一方、「大学に合格するほどすごく勉強したんだ。偉いね。」このような言い方をするといやらしさを回避できる。なぜならこちらは、大学合格という業績にではなく、勉強した個人の努力を褒めているからである。
大谷の例と大学合格の例にはある程度の共通点が見られると言っていいだろう。となると「勉強してて偉いね」という言葉は、その人の人間性に対して言っているという視点が一つ出てくる。つまり、努力をしているということや己に打ち克っていることなどについてのということである。
だがこうなると、「何を以て努力と言うのか」という問題が生じてくる。少なくとも「努力」という言葉を使うからには、ポジティブで楽ではない行為を継続していることに言われるのであって、ネガティブな行為や楽な行為には「努力」という言葉は使われない。