勉強することは偉いか
勉強することは偉い。世間一般的にはそう言われることが多いと思う。本当にそうなのだろうか。ここではそれを一歩踏み込んで考えてみたい。 「勉強して偉いね。」と言われる。まずそれが言われる対象として思い浮かぶのは学生だろう。ここでは「学生」という言葉の範囲を小学生から大学院生まで含めることとする。なぜ学生は勉強すると偉いのか。一つ考えられるのは、「それが学生の本分だから」というものである。学生は勉強すべきだということは、本人の意志ではなく社会から規定されていることであり、それを果たしているから偉いのである。しかし、社会からの規定という意味での学生が勉強している時間というのは、授業中である。授業に出て教師の話を聞いているということが、社会的に規定されている時間である。この時間のことを指して、「勉強して偉いね。」とはあまり言われない。これが偉いと言われない理由の一つは、それは皆やっていることだからであり、やっていて当たり前のことと考えられているからである。
それでは学生が「勉強して偉いね。」と言われるのはどのような時であろうか。それは授業外での勉強の時間のことを言われることが多いだろう。例えば、日々の予習復習、塾に通う、受験勉強などのような授業外の時間を指して、言われることが多いだろう。なぜだろうか。それはやって当たり前ではないからである。つまり、遊んだりくつろぐことに時間を使える可能性がある中で、勉強という辛い作業に時間を費やしていることに対して、「偉い」と言われる。ここに来ると、「本分を果たしているから偉い」というわけではないことがわかる。
それでは皆がやっていない、やっていて当たり前のことではないから偉いのだろうか。確かにそういう側面はある。皆が遊んでいる中で、一人だけ勉強しているものがいれば、偉いという印象を抱かせる面はある。だが受験期になればどうだろう。ここでは、勉強する人数は圧倒的に増えるし、受験生は勉強して当たり前という面がある。だが受験生はやはり「勉強して偉いね。」と言われるだろう。これはなぜだろうか。確かにそれはより視野を広げ、社会全体という側面から見れば、やはり少数派であるからという論理を維持することはできる。しかし、それに加えてやはり「勉強は辛い」というイメージが世間に浸透しているから、その辛い作業をやっている者は偉いという面があるだろう。ここまで来ると、皆がやっていない、やっていて当たり前ではないいうことに関わらず、単純に勉強という辛い作業をやっていることが偉いということになるだろう。
だがそれが受験生同士の間であればどうであろう。受験生というお互いに勉強している者同士の間では、勉強しているということだけでは、偉いとは言われないだろう。お互いに勉強している者同士の間で、偉いと言われるとすれば、一つは勉強時間の差がある場合である。例えば、皆は平均して大体5時間くらいやっているらしい。だけどあの子はどうも10時間もやっているようだ。このような差があれば、勉強時間5時間の子は10時間の子に偉いと言えるだろう。一方、この逆のケースもある。進学校などで周りは皆10時間くらいやっていると。だがある子は5時間くらいしかやっていないとする。そのような中では、5時間の子は周囲から軽蔑すらされ得る可能性がある。しかし世間から見れば、5時間の子もやはり偉いのである。つまりここまで来ると、「偉い」という言葉を発する主体と言われる対象との「差」が重要だということになってくる。自分より勉強していれば偉いというわけである。ある主体が偉いかどうかは、その主体がなしていることそれのみで定まるわけではなく、発話する主体との差により相対的に定まるということである。そしてこれが言えるのは、ここでの考察が「偉い」という発話に焦点を当てているからである。この視点に立てば、最終的には偉いかどうかは、発話者がどうみなすかによるということに収斂していくだろう。
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(続き)
確かに「偉い」という言葉が発せられるのは個人の心が決めることである。しかしだからといって、全てが個人の要因に帰せられるということを意味するわけではない。なぜなら、個人の心はある程度社会的集団的な規定の影響を受けているからである。つまり、社会的通念や常識の影響を受けた上での個人の判断だからである。今回の場合、「勉強=ポジティブなもの」という社会的通念が厳然として存在するということが、「勉強して偉いね」という個人の発話に影響を与えている。
また発話を考える場合には、内的発話と外的発話を分けて考える必要がある。外的発話の方は、他者との関係性を常に考慮してなされるものなので、そこには「偉いかどうか」ということだけではない意味が加わってくるからである。一方、内的発話の方は、そのような関係性を考慮する必要がない分、より純度が高いと言えるが、全てが純粋に個人の感情であるとは言えず、社会的通念の影響は避けられない。社会的通念の元に、個人の感情も生成されるからである。