「かりふぁのかりかりにっき(仮F)」
かりかり
方針:思考ログ たわごと 黒歴史 リンクはしないでね! 朝書いた方がいいのでは 漢語を控えよう無理ぽ
9月10日14時
規範的語用論に言論空間へ実行自体を導入したい
ブランダムは相互承認論を通して実質的推論を支える人間観点に触れている。
コミットメントの掛け合いの前提として相互に承認欲求があることが明示される。
牽引と指導
牽引
覚悟を持って事業に取り組む人
コミットメントが付与されている
指導
資格を持って事業に取り組む人
物象化と人格化
対話によって生じる実存的空間
区別はシステムが付与する
全ての社会の構成員は、ある地位が与えられ機能を果たす構成員を他の構成員から区別しようとしない。
いや実は人間が区別する
システムの特権性をシステムの物象化と呼んで、区別する働きを対話の連鎖やその集積に存すると見立てる。
再帰性によってダイバージェンスの見積もりができるならば、その最低値を基準に推論を分離できる。
9月9日15時
白昼夢がよくあるので、それを記す日記を立てた。白昼夢は願望の投影というが、そもそも、投影してみなければそれが願望であるかどうかすら知ることができないのです。
エスノメソドロジーって社会学理論を詩的に踏み倒したんじゃなくてその系譜の中に位置付けられていたのか
しんようしゃの「ハロルド・ガーフィンケンル」読んでる
今までの理解を並べておくか
諸事物の構造への適切な共通理解がなければ語りが指し示す意味は汲み取れない、という前提を用いない。
言語実践によって表象が意味内容として交換されるという立場を取らない
現在の会話の流れの事実性から過去の語りを意味づけ、同様に将来の語りの志向性を逐次的偶発的に反映する。
言語使用が(観察者へと)説明されうるという可能性と、言葉が現実を言及しているという可能性を捨て去る。
いかにして話していたかの描写と語りの内容の説明は限りなく近づく。
本に書いてあることを並べるぞ
観察者としてではなく、研究者は社会的態度を適用して社会秩序の産出を目の当たりにしなければならないらしい。
そのような訓練方法も考案したらしい、
エスノメソドロジーは、秩序現象を客観的なものとして見立てて手続き的に説明可能な現象へと還元するのではなく、そのものとして捉えようとする。(新手の宗教か?社会情報の産出をしろ、信じて波に揉まれろというふうに聞こえるし、もしそうならば、実業家の方が社会について学者より多くのことを知っている)
ガーフィンケルは社会秩序の産出に関して、状況的な実践の生産と達成、そして具体的な状況の参加者が互いの行為に対してどのように理解可能なやり方で志向することができるかについて考えていたのである。
スポーツマンシップに則るようにして、違反を通じて審判と対話すれば良いのではないでしょうか。かりふぁ.icon
テクニカルファウルが予期されるには常に事後的に見過ごされた事態がある
ともかく、社会科学者の自己言及的尺度、他者の判断的知識や異なる言語実践からくる葛藤とは無関心に独善的に事態を普遍的に描写するためのトーテム、を解体しようとしたのは理解した。
その分野、窒息するしかなくね?
教育評価をしないことを決意したばかりに教育現場であることを辞めた教室みたいな感じ。ファシリテーターと会話するだけのいわば井戸端。
難しい語彙とかを挟んで、あるいはメタ分析に勤しんで、時間稼ぎすることはできるだろうが、新規研究者の参入がなければすぐに弾けるバブル的言論空間。破産確定言語ゲーム。
ガーフィンケルは社会学と対話しようとして、若き研究者を隘路へと誘って絞め殺しているのではないだろうか。
まぁ流行とはそういうものだが
このエスノメソドロジーの入門書の存在意義も呪いでしかないな、呪詛本
呪詛というのは福音を告げ知らせるという意味で使ってる
理解不能な未開人を理解可能な人材へと啓蒙する、パラエネティックな感じね
要は色んな経験が大事って解像度で人にあれこれしろと勧告するやつ
ガーフィンケルは先立つ行為と後に続く行為を同時に志向することによって行為は意味を獲得するといってる
行為は意味を達成は意味がわからん
達成には前もって問題提起や検証されるべき仮説の有無があるというのが判断される概念の上で体系化される活動の要請ではなかろうか。
量子化の無いところに判断は無い
むしろ行為を区切らねば判断できないというのが、従来の社会学の当為であろう
同時に志向するというのは、それを極端に推し進めれば、「赤ちゃんが生まれてから社会性やアイデンティティを概念化すると同時にその葛藤を忘れ去り赤ちゃんの精神状態まで戻ること」を意味するのだろうか。
もしそうならばもう少し探究の余地があるか
相手の状況に対する関わり方と能力に対するこの信頼に基づいて、参加者は互いの行為を調節し、その場において社会秩序を生み出すことができるのだ。
連鎖しているという予想がすでに、信頼を前提に含む。ゆえに行為が連鎖的であるか否かの制約条件が与えられねば、いかなる均衡や葛藤、そして作用や状態の定義も、あるいは"状況への関わり方"すら解しえないであろう
相互行為のワークは、連鎖的に組織されており、この組織によって行為の意味が観察可能及び理解可能になる。
連鎖であるかどうかの同定はどうするのじゃ、趣味判断、美意識、あるいは預言成就?
書いてない
無限解釈編
談話分析の結束性と主題によってディスコースの境界を見極めるような仕草があったけど、結局主題や主題と結束する分の構造が与えられていないから、雰囲気でしかわからないんだよな
少なくとも、人間の知能をブール代数で表現できる程度にまで落とせば、木構造の動的構築程度の解明はできるだろうが、、たとえば神を頂点にもつ木構造などね。
間主観性は社会的相互行為の前提なのではなく、(中略)実践的達成なのである
何を達成したのか
言語が意味を達成するらしい
行為の連鎖によって
?
行為の連鎖がなければ、そもそも言語実践は意味を達成しないってこと?
実践的達成はダブルコンティンジェンシーで理解できそうではある。
実際、間主観性が達成された、いわば対話の相互主体であっても、理解を示しあうプロトコルさえ同期していれば、どのようにどの経路で理解を得たのかなどに関係なく合意は取れていようものである。
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
行為の連鎖を最高の規範とする思想に心当たりはある。
赤信号みんなで渡れば怖くないを理詰めで体系化したアノ思想ね。
何とは言わないが
行為が連鎖しているという点が自己言及的な人間観であるというのは理解しておく
連鎖していないと言い切ることがどのような場面でもできないからな
ブランダムの言及クラスと知識ストックと関連性のシステムSchutz1945とはどこが異なるのだろうか
頭いてぇ
エスノメソドロジーは方法論的認識論
いわば体系化される途中の仏教の修行みたいなもの
真理を探究しないことが唯一の真理であるような探究の倫理
9月6日(金)15時
かくあるということとかくあらねばならぬということを取り違えるムーブをしていた
うかうかしていると倫理の話をしているのかどうなのかを間違える
時々自戒しているけどたまによくやる
疫病や戦争でバッタバッタ人が死ぬ時に生じるような葛藤について忘れているから啓示テクスト読んでも難しい。
忘れているというよりも親の代すら経験していないが
教育評価と窒息
特定の評価と特定の行為が結び付き、他の結びつきと排他的な関係性を築くと評価を最大化するようにして行為するようになる。
教育評価は、教育実践を評価する。生徒の営みを評価するとは言い難い。
生徒の営みは教育理論に於いて歴史の内にその地位を占める。
いわば理論は見立てを通して営みを実践と見做し、これを正当化する。
営みを区切り、ある実践としての地位を付与するのは理論の営為であり、この区切りは評価上の判断に基づく。
教育評価上の判断は、生徒の営みを歴史に結びつける。
生徒は特定の評価と特定の行為の結び付きを引き受け、能動的に実現することによって外界の予測不可能性を減らす。
世界は予測可能であるという当為は、かかる予測不可能性を縮減する立場の倒錯である場合がある。
評価のないところに正当化は無い
生徒の営みとは教育評価抜きにしては歴史的な意味を持たない。
評価抜きには共同主観化されないため、歴史を共有せず、対話の参加者としての相互主体性が生じない。
9月2日(月) 14時
均衡モデルを思い出すために、平衡認識を少し思い出す。
タンパク質の合成には正しいtRNAがリボソームの間のコドンに収まって処理されることでアミノ酸ができるらしい
時には異なるt RNAが出てきて、それに対応する誤ったアミノ酸が作られ、正しいタンパク質合成を阻害する。
正しいtRNAと誤ったt RNAをそれぞれc,dコドンをCとすると
c+C⇔ cC → 正しいアミノ酸
d+C⇔ dC → 誤ったアミノ酸
ここで、c+C⇔ cCの可逆反応が起きる正反応と逆反応の速度kc、kc'またkd,kd'と比べて、 cC → 正しいアミノ酸 の反応速度はずっと遅いとする。
ここで、kc'とkd'の速度の違いが、言い換えると誤ったtRNAよりも正しいtRNAがコドンからより離れづらい程に、正しいアミノ酸が生成される確率が上がることはわかると思う。それがどの程度か。
正しいtRNAと誤ったtRNAが結合する、正反応の速度kc,kdは等しいと仮定すると、誤ったアミノ酸が生成される確率はkc'/kd'となる。kc,kdが等しくなくても、kc'*kd/kc*kd'となる。
不可逆な過程を挿れることで精度が高くなるという動力学的校正の考えを用いれば、(kc'/kd')*(lc'/ld')*(mc'/md')・・・というようにn個の不可逆的過程ごとに誤り率がx^-n倍になる。
一般に生物は、あるいは知能を持った人類の認識作用は、他の反応ではある系のエントロピー(乱雑さ)を上げるしかないと予想される中でも、一見エントロピーを下げたように振る舞う。それの説明に使えそうである。
経済の構造
経済は市場と家計、企業の3つから構成される。生産に必要なもの、もっぱら可変資本である労働力、を家計が供給し、企業は財を供給する。これらの商品が市場では需要=供給となるように価格が調定される。
家計の効用最大化
己を知り世界を知っているという、言語理論(オートマトン)のような理想化された空間で議論がなされてて、浮世離れしているなぁという気分。あるいはコロニーシムや資源管理型のシムをつまりシミュレーションゲームをプレイしていれば制約条件を少し勘定して最適化問題を解いたり近似したりすることもできるだろうが、この人間観に対して同意できない。まぁ金と市場のインデックスを崇拝して毎日礼拝していればそのような人間観が養われるのかも知れぬ。判断の論理のみ、探究の論理無し。
経営の見通しをよくするには保険に入るであろう。つまり金融神に対するお布施のようなものだ。お布施が効かなくなるのが金融危機だ。
いちおう、静学的応用一般均衡モデルの話らしいので、動学的とついてくれればこの平板さで転がるのもいいか。
基礎科目ってやつよ
めっちゃ係数出てきた。昇天
家計にて最大化されるべき効用は
$ \max_{X_{i}} \hspace{1em} UU= \prod_{i}X^{\alpha_{i}}_{i}
スクボ数式できたんか...
$ i:財
$ h:生産要素(労働と資本)
$ UU:効用
$ X_{i}:i番目の財の消費量
$ \alpha_{i}:効用関数の支出割合係数($ \sum_{i}\alpha_{i}=1)
また、家計支出と収入は等しいので以下の制約を受ける
$ subject \hspace{1em} to
$ \sum_{i}p^{x}_{i}X_{i}=\sum_{h}p^{f}_{h}FF_{h}
$ FF_{h}:第h番目生産要素の賦存量
$ p^{x}_{i}:第i財の需要者価格
$ p^{f}_{h}:第h生産要素の価格
ラグランジュ関数の定義
普通は解を持たない方程式でもx=0近傍の時に限って解けるような操作があるらしい
$ L(X_{i},\phi)≡\prod_{i}X^{\alpha_{i}}_{i}+\phi(\sum_{h}p^{f}_{h}FF_{h}-\sum_{i}p^{x}_{i}X_{i})
Xは消費量だが、なんだこれ
色々と数学的操作をすると以下の式が得られるらしい
$ X_{i}=\frac{\alpha_i}{p^x_i}\sum_hp^f_hFF_h \hspace{1em} ∀i
研究者すげぇ、かいつまんだ途中式があったけど操作わからん
$ \alpha_{i}:効用関数の支出割合係数($ \sum_{i}\alpha_{i}=1)が非負なので価格$ {p^x_i}が低くなるときに第i財に対する需要$ X_iが増加する。また所得$ \sum_hp^f_hFF_hが増加するときに第i財に対する需要$ X_iが増加する。
なんか眺めているとそんな感じか
企業にて最大化される利潤は
$ \max_{X_j,F_{h,j}} \hspace{1em} \pi_j= p^z_jZ_j-\sum_hp^f_hF_{h,j}
$ j:企業(内訳:パン,牛乳)
$ h:生産要素(労働と資本)
$ \pi_j:第j企業の利潤
$ Z_{j}:第j企業の生産量
$ F_{h,j}:第j企業の第f生産要素の投入量
$ p^{z}_{j}:第j財の供給者価格
$ p^{f}_{h}:第h生産要素の価格
売り上げから出資した金額を引いたのが利潤でこれを最大化するのか
$ subject \hspace{1em} to
$ Z_j=b_j\prod_{h}F_{j,h}^{\beta_{h,j}}
$ \beta_{h,j}:効用関数の投入割合係数($ \sum_{h}\beta_{h,j}=1)あるいは、財に対して生産要素の重要度である。
$ b_j:生産関数の規模係数
規模係数だけ初出だな
同じようにラグランジュ操作すると
$ F_{h,j}=\frac{\beta_{h,j}}{p^f_h}p^z_jZ_j \hspace{1em} ∀i
が得られると。
第h生産要素の価格$ p^{f}_{h}が下落したり、第j財の供給者価格$ p^{z}_{j}が上昇したり、生産量$ Z_jが拡大したら第j財産業が需要する第h生産要素の量$ F_{h,j}は増加する。生産者と生産要素の均衡である。
アイコン鯖からの引用で棒グラフが描けるらしい
A /icons/blue1.icon*230 23.0
B /icons/blue1.icon*443 44.3
C /icons/blue1.icon*327 32.7
ホンヘ
なろう小説ですらsiriの読み上げを使わないと飽きる...!!読書体力ください
8月23日 18時
たけのこさんたちと資本主義に関連する本を読んで紹介し合うビブリオ会をやるので、池上彰の解説する高校生向けの資本論の本を読んでいる。
社会的価値とか抽象的人間労働のくだりで、使用価値とは無関心に概念的な”価値”が規定されていて、”価値”を上回る使用価値のみ市場に於いて正当化されているのかなぐらいの感想。
高校生向けで読みやすいはずだが池上彰の語り口がノイズでムカムカする。教養を強要してくるのでさっさと成仏したほうがいい、この世にカルマを積み上げないでもろて。
第一、旧約聖書と新約聖書を読めはおかしいんだよ、何ページあるとおもってんだ
聖書なんて読まずに、キリスト教国に行って、ミサを見学したり、イースターやクリスマスが主題の児童向け作品を見れば良いのだ。
NHK高校講座で為替手形と約束手形を解説してた。わかりやすい。
ローカルで交わされた契約はグローバルに価値を保たない。
仲間内で交わされた支払いの予約と金額についての契約を銀行に償却する時は額面が目減りする。
仲間内の信頼を最大化すれば、銀行が利子によって延期する支払い期日に支配されずに、交換が成立する。
仲間内の信頼がなくとも、最低限銀行が利子によって延期された支払い期日を前倒ししてくれる。
銀行は取り立てを実行する能力によって、支払い期限を延長する能力を得ている。取り立てを実行する能力が厳密に社会的に行使されるが故に、銀行の支払い期限を延長する能力の元に仲間内の信頼の程度を最低限保障しかつ最大化しないことを市民は受け入れる。
銀行は取り立てを実行する能力と支払い期限を延長する能力の分離はいかにして可能か
取り立てるために取り立て、延長するために延長するにはどのようなカップリングが可能か
銀行は、経営主体を実質的に拘束する経営学を基調とした法律によって、会計の規範を尊重し、この規範の浸透によって現状認識を得る。
銀行にとって見通しの良いように自己形成することを金融教育と呼べる。翻って主体も銀行を通して現状認識を得るためである。
8月8日 14時
本願自力の根本義
修行と悟りは一つ第1章で、長年の疑問に対し道元が得た結論を次のように紹介しました。大悟するために修行するのではない、悟りのなかにいる(仏である)からこそ修行できるのだ。道元はそれを、──修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修──と表現しました。修行と悟り(証)とは一つである。〝本証〟とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが〝妙修〟です。
ひろ さちや. NHK「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り (Japanese Edition) (pp.80-81). Kindle 版.
思うままに行為的に直観的に成すのがこうした自力の根本義であるな。
そういえばはじめさんが言ってたな、「西田のルーツは道元と近い」って。内容については特に付言していなかったから、今気づいたが。
とはいえ私の立場からすれば、裁きの無い創造力には、判断の実現しない知識には、自己紹介のない戯れの連鎖には、不完全性を見出さざるを得ない、それが一瞬の成就としてケリがつくのであればそれはそれで良いのだろうが、ケリがついてこなかった過去を贖うにはケリがつくところまで創造力を制限するのではなくして、無限より汲んできた、たすけが必要である。
そう言えば妙修の立場を貫徹すれば、狂人の如くに目的に無関心なまま趣味に走ることができるが、これを免れるにはいかなる規範があり得ただろうか。修行を限定する倫理は何?
日常生活をひっくるめて禅や修行とみなしたらば、不意の殺人を妙序と成してしまう。
しるべし「諸悪莫作」ときこゆる、これ仏正法なり。
どこかで聞いたぞ
実存哲学のうち、サルトルが唱えていたやつでもあるし
臨床心理学者のアドラーが言っていたことがより近しい
俺はアドラーが好きではない
修行をしていると「悪いことするなよと自然に受け取れる」らしい
悪に立ち会ったことがないのにか
キリスト者が偶像崇拝を排撃しつつも、偶像がなんであるかに無自覚なのと似たような現象が起きるに違いない
喫煙、喫茶、そこに満喫があるならば
そう言えば、走れメロスの結末で、メロスが王を殺さなかったのはなぜだろうな。
あるいは仲間として、唸りをつけて殴ったほうがいい
8月7日18時
はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず、という表現を使って説いています。花や月を見ても、そこに別の光や色を付け加えない、ということです。わたしたちは花を見て、もう少しピンク色が濃い方が美しいとか、月を見て雲がなければいいのに、などと思うことがあります。それは花にピンク色、月に光を付け加えているのです。それではあるがままを大事にしていることにはなりません。花も月も、春も秋も、その声を「かへりみるべし」(あるがままに聞くべきだ)と道元は言っています。
ひろ さちや. NHK「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り (Japanese Edition) (p.46). Kindle 版.
今日は道元の門前でたむろしている。
このように現象をあるがままにとらえると主張する人は全て花という記述によっては何も表現できないことを知っている。彼らはなぜにものを語るのだろうか。
もし道元とその門下生が仏以外には服しないというのならば、誰が誰の元に服していて、それによっていかなる世界観をそれに呼応する人間観を映じていようとも、現象に立ち返れと、すなわち無秩序の強制の命令を、語ることは無い。なぜならば、そこに服するもののみに与えられた祝福を否定することは、服することとそれゆえに創造することとの否定であるからである。
これらの立場が想像力に対して真面目であるか腕白であるかを考えれば本願他力の立場と大差が無い。
現象をあるがままにとらえる、この追求が極めて困難であるというのが創造力の面目である。もしそうでなければ、通信計算機はある時点の前と後とでサンプリングした値より補正してその時点のノイズが加わる前の値を特定するが人間の場合も同様に投企などと称して全生涯を反省したり、啓示を得て天地創造にから起こした自己の歴史の絶対座標を特定したりはしないのである。それゆえ、これを主張の旨とするならば欺きであって、仏法においても純粋に批判することのできない論理である。
我らのやることは現象をあるがままにとらえることの困難をたとえば仏法に服することによって贖う。それ以外の法に服することで得られる認識を捨てると決意して初めて成される。
もちろん、機械的に時間分割し適切な処理をすれば両方の認識を経験できたと想定できるが、時間論から起こして創造力の焦点についてまでは議論を省く。
このことは唯一神を崇める宗教のその方法論に於いて顕著である。過越祭やquran の al fatiha を17回唱えるなどは現在における他の了解可能な世界の廃絶である。末法思想はその点でいずれも腕白である。
8月8日11時 続きを書く
人は何も意味しない、
意味として自らを差し出す
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。〝有る時〟というのは、「時(現在)」が「有(存在)」であり、「有(存在)」が「時(現在)」である。
ひろ さちや. NHK「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り (Japanese Edition) (p.70). Kindle 版.
kindleはコピペ回数を制限しがちだが、そうするのではなく、情報源としての責任を全うしてコピペ回数に応じて出版社に金を払え。
著作権を尊重した気になって著作者の首を絞めるだけのプラットホームだ
歴史と世界に於ける絶対座標を知らないならば、それは即ち迷いである。
過去と未来を語る覚悟も持てないならば、すでにして現在から締め出されていると言わねばならない。
因果関係の説明に責任を負うことのできない人間はいかなる約束からも免れており、それゆえ対話に背景する倫理を妥協できない。彼らと可能なコミュニケーションは唯一崇拝することのみである。
一般的にそれをコミュニケーションとは言わないが、広く解釈してほしい。
要するに、人間が認識できるか否かによって仏性が仏性であったりなかったりするといった考えに固執するのは、外道のすることだ、というのです。認識主体がいる/いないにかかわらず、あるいは認識主体が人間である/なしにかかわらず、仏性は仏性であり続けるのです。
ひろ さちや. NHK「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り (Japanese Edition) (p.71). Kindle 版.
あるいはこれは時間論ではなく、美学と解するならばまだ余地はあるか。
認識主体に無関心な世界は主体を疎外する。それゆえ、世界からの歩み寄りとその媒介が必要である。
法身、報身、応身の三位一体がなければ、ただ現状肯定あるのみであり、そこに罪や将来招く咎への救済は無い。
救済という観点から見ると、明らかに浄土真宗が優れている。自力で贖う虚しさを自覚する意味では道元らの立場が優れているのかもしれない。
これは完全にキリスト教から見たユダヤ教の雰囲気で、割と独断と偏見のある判断ではある。ただ、そういう偏見のノリがあった方が伝わりやすいと思ってユーモアで用いる。解説させるな!
サロンで描いたけど完全に独り言、日記のノリ うーむ。
家庭の教育について親のマインドがこの主題
これから体罰と殴ると書くのは精神的な痛みを与える教育作用を提喩で表現したものである。境界を定めるために重箱の隅を爪楊枝で突く議論を展開すると、発話をオートマトンの出力として解釈した時に赤子に母語として習得させる言語を計算複雑性理論に照らしてより複雑な言語を用いて提示する親は比較的に体罰を多く加えている可能性を主張できる。
2つのアプローチがある
・体罰しないと決意して、しそうになったらorしたら心穏やかな周囲の人が一時的に担う
・体罰し得る弱さを認めて理性的に体罰を加えるべき境界を策定する、策定には専門家が関わる
親が体罰しないことを決意して理性的に判断するのが理想なのかもしれないが、決意をしながらその信念を貫き通している自己像を疑いつつ立案する精神は実現できるだろうか。人一人殴り殺さないとそのような決意はあり得ない。子供を殴り殺した歴史を反省しているのである。
もちろんふつうの人も、子供を殴る途中で、顔よりも体の方が世間の眼差しは軽いな程度の損得勘定はできるだろうが、その立場を前もって準備するならばそれよりずっと長い時間有効でありかつ広い社会に説得的な計画を予め立案できないとも言えない。だから後者の立場も、現代的な耳ざわりの悪さに関わらず一定の道理はある。
現代の日本では無理だが、子育てに参加する労働力がいるならば前者の立場は円満に行くであろう。どうせ人の噂も75日だからと開き直ってしまえる雰囲気だ。というのも、計画立案をするような問題解決の態度を採用しないので、75日以上保存できるメモリーは少なくて良い。
体罰と殴るというのは精神的な痛みを与える教育作用のメタファーである。単に肉体同士の衝突に留まらず、これまでとこれからハラスメントとか言われうるあらゆる問題のある教育行動について妥当するものとして考えてほしい。
これらの教育作用の対立項は教育しないことが教育であるような立場であり、これはネグレクトとスペクトラムを成す一連のコミュニケーションである。
経済で色々と役割分担している雰囲気の延長を持ち込めば教育を国に任せる権利ぐらいはあって良いと主張できる、即ちネグレクトの立場の合理性を批判する余地がある、がこの議論は家庭の教育という営み自体を解体するので、ネグレクトが対立項であると目配せをしておくに留める。
七月29日12時晴れ
現実化とは何か
まず子供の言語習得のたとえを認識論の立場へと記述してみる。
例えば、ある子供がクジラを一匹二匹と数えていたとする。
大人は違和感を感じ、子供の目線に立って、クジラを形状の類似によるバイアスで魚類のように捉えていると解釈する。そこで大人は子供に、クジラは哺乳類だから匹(ヒキ)じゃなくて頭(トウ)で数えるんだよ。と諭す。この例は大人は子供の認知を間主観的に了解しているが、言語習得における形状バイアスやクジラが哺乳類であるというような分類は全て大人側のフィクションであり、科学的方法論によって抽象された理論を背景していても、その運用の点から蓋然性を帯びる。理性の立場からは大人は自分の判断の根拠を明示化し、子供や他の主体と共有できればできるほど真実に近づく。近づいたとしても認識論は形而上学に至らない(もの自体の世界には行けない)ので、言葉を交わすことは真理への標石になったとしても真理そのものではない。ここで終える。
では、乖背法運動の立場からはどうか。
乖背法運動とは、弁証法運動のアンチテーゼの面を強調したもので、反に立ち会う局面において真理に接し、ジンテーゼの面の統合作用を却って主観の自由な営みと解釈するところにアクセントがある。いわゆる絶対矛盾的自己同一のように、自覚によって却って歴史的世界の自己発展を発見し、大なる統一のある心地のするように、我々も否定的局面を強調する態度を取りたいのである。
先ほどの言語習得の例によって、大人は子供を諭し、子供がわかったと返答するとする。実のところ、大人の抱いた内的法則、先ほどはフィクションと呼ばれたもの、は子供の了解によって義とされ真実となる。それが何故か。これを"わかった"子供がその了解事項を彼の生きる世界で使用し再構成することで、時間が推移してゆけば、自ずから世界へとソレが開示されていくからである。あの時の大人は私の形状バイアスを理解していたのか、とか江戸時代には哺乳類の分類がなくて匹を使っていたんだなぁとか、彼が言明しなかった内容も条件節のうちに付け加えたり条件付きの言明だったと差し引いたりする。こうした言葉の加減によって、諭す大人の立場を自分の歴史に組み込むのである。
さて、私がソレと呼んだのは助数詞という再生産され開示される規則である、この文法にはクジラをトウと呼ぶべきという規範的地位がある。文法は主体に自覚される場所として実在であり、各々主体に何をすべきとして地位を与える。子供と大人とが持つクジラをトウと数えるべき論理的な背景の一致に関わらず、むしろ一致しない時があるようにして、言語行為が存在する。言語のやり取りはお互いの推論が矛盾しない限り続くのではなく、言語のやり取りの事実に対して事後的にお互いの推論が辻褄合わせをする。主観的な操作によって矛盾しないように成る。規範的地位とは、外面的には頻度の問題である。クジラをトウと呼ぶ人が多ければ多いほど、理由となるべきさまざまな論理が巻き込まれる。
子供にとっては、大人が頭(トウ)の助数詞を用いるという事実が啓示であり、それまで匹(ヒキ)だと予想していたのはもはや非現実である。匹(ヒキ)であるべき認識論的な蓋然性はそれを主張する別の啓示、例えば哺乳類という分類以前では頭(トウ)の助数詞は偽りである、がなければ言葉にならない。なんで?の問いも大人がその疑問に共感してくれる限りで、すなわち大人がクジラって魚に見えるよなぁと素朴に思うことを形状バイアスと呼称して子供に差し向ける用意がある限りで、有効である。すなわちここで現在化とは頭(トウ)と呼ぶべきという啓示によって現在があり、過去に匹(ヒキ)を用いていた自分を恥ずかしく思い、また未来は匹(ヒキ)ではなく頭(トウ)なんだと友達に話す。その一連の時間軸の予想である。
翻って大人の視点を含めるとより明瞭である。
言語習得とは、大人は誤りの例を示したり文法規則を教えたりしないので、子供の場合の例で示したように恥の連続である。私が私がソレと呼んだのは助数詞という再生産され開示される規則であると同時に、恥のことであり、これは実在である。
この恥は罪の意識であり、大人はソレをよくわかっている。恥について調べることは罪の償いであり、子供に知識を諭すこの大人は子供の替わりに、彼の恥を贖ったのである。大人は子供について自分が預言者であると思うことができる、すなわち子供にとってよそよそしい文法法則(神)と子供(罪の民)とを媒介したために預言者であると把握できる、が一方で彼は自分の恥の贖いを、子供に了解してもらうことで認めてもらう、ここでは関係が反転して、子供が預言者、すなわち文法法則(神)の前で大人(罪の民)の恥が弁護され執りなしを受けるのである。ここで、大人にとって現在化とは、恥の意識が拭い去られ、クジラをトウと呼ぶ規範的地位の再生産によって自分のミッションを子供に明け渡すことである。大人に対して子供は未来である、子供がクジラをトウと呼ぶ規範的地位にコミットし、この鯨の助数詞を問いただし、またその運動が永遠と続くところによって、形而上の文法法則に、彼自身が組み込まれるのである。
子供については実存的な自分史観、大人については共同的な歴史観についてお互いに預言者であって、その交歓は世界が創られる突端である。
かかる言語活動における共同主観の形成を現実化と呼べる
実現しようと思ってままならない
アイディア自体は2ヶ月前、実行は今朝からというのが多い
ヨイショ
実行が継続しない
趣味は共有して初めて継続しうる趣味になるのではないか、自我を他人に巻き込んで初めて趣味という感じ
パーソナル空間を絶対視したいひとに怒られそうだけど
アイディアを忘れる
というか寝る前に考えるな
最近、資本論における揶揄のこもった換喩としての三位一体を翻って参照元の三位一体に適用してみると面白いのではないかと思う。
救い主や創造主や裁き主と言った幾つかの神性の現れを一つの根本からくるとみなす思想である。
これを子なる神や父なる神や聖霊と呼んでも分類の枠とその尺度が異なるだけで同じことであると思うので立ち入らない。
資本論では直感を隠す概念として三位一体定式における神秘化の完成をみるが、これを反転させて、神秘のベールを人間本位に返すことができるかもしれない。
マルクスの理論は経済現象を表現するに際して抽象的人間労働という概念を尺度としながらも、この尺度は人々の直感に根差した具体的有用労働という労働価値説の根本からきた現れであると論証を試みている。
ちょっと前まで哲学の概念で表現してみると面白いのではと思っていたことが、啓示宗教のあたりまえだったことに気づいて今やりたいことを無くしているに近い状況
思い出に縋るゾンビよあっちいけ
7月25日20時 時々雨
認知は現象を事後的に解釈するが、事前準備がないこともない。
生命システムについて
(1)認知は生物学的現象であり、生物学的道具立てによって規定しうる。認知の領域についての認識論はかかる前提を認めなければならない。
(2)認知的洞察がうまく実現されるには以下の二つの問いが満たされる
機能としての認知とは何か
プロセスとしての認知とは何か
オートポイエーシス マトゥラーナとヴァレラ から拾ってきた。
この問いに対する回答は
生命システムの自己言及する円環的有機構成の第二記述を行いうる自己言及システムの出現を示してきた。このシステムは、他の類似したシステムや自己自身との相互作用を方向づけることによって、"思考領域と意識領域"(原文は意味がわからんので意訳する)を共に生み出すことのシステムである。つまり私は観察者の出現を示してきたことになる。
(中略)
生命システム一般、とりわけ神経システムは、環境を制御するという進化を経て現在の形態へと到達したが、これらのシステムはそもそも環境を制御するように作られてはいない。そのため私たちはこれらのシステムについて語りうることだけを語ることができる。
メタ認知を生物学的に記述したようである。
中枢神経系に存する観察者と生物学的現象を伝えるシステムとを区別した時、観察者を観察するメタシステムが想定される。
認知された現象と生物学的現象とを"="で結ぶことのアポリア
昔おぼえた歌の詩の意味を今になって解釈する場合はどのように想定できるのだろうか。
未来起こることの確信はどうあっても得られない→ならわしや宗教の地平の全否定
事実は仮説というか個人宗教をポンポン思いつき、過去も未来も勝手気ままに吹聴するのが人の性
メタシステムとは"観察者"によって見なくても良いと判断されている生物学的現象を再度キャッチアップするように仕向けるシステムである
メタシステムを考案すると、生物学的道具立ての外に行くので 語りうることだけを語ることができる。が効いている。
得心
意識の中で過去の記憶が書き変わっていくことについて、遺伝的に継承されているのでは、のような見立てがある。
遺伝システムや神経システムは、環境についての情報をコード化し、それを機能的有機構成のうちに再現するものだと思われている。だがこれは支持できない。
マトゥラーナの指摘も尤もで、生物学的現象に即するならば、環境がコード化されるのではなく、生物と環境との相互作用の系列がコード化されるに留まるはずである。これが環境自体であると推論するには、世界はわたし(生物)であると前提することになる。
メルロ=ポンティあたりが世界は肉だって言ってそうだ。
自分の肉と世界肉とが根本でつながっているというところまで見えた。知らんけど。
だからせいぜい言えるのは、遺伝システムや神経システムが成長や行動へと向かってコードを自己解読しているかのように観察者から見えるとき、実際にはそれらのシステムが自己特定化によって情報を生み出しているということである。
そのせいぜいがかなり大事だが、自己特定化は他のテクストでは出てこないようだ。
とほほ
2月24日22時 あめ
創造しようそうしよう。
評価は価値を言及する行為で種々の態度や規準を参照する。価値は労働の集積物として認められたものであり産出物と等しい手形。規準は理想に対する関心に秩序立られる。そうかも。いやなんかちがう。
体系内在的評価
体系内在的評価について書く前にやること多すぎひんか。つらい。
体系は体系化抜きにはあり得ない、内在は内在化抜きにはあり得ない。体系内在性は体系化と内在化の集合的実現であり、構成素の部分否定と内在化の運動によって体系という秩序の同一性が実現される様であり、体系を主とみるも構成素を主とみるもその秩序の同一性におけるタイムスパンすなわち社会性の多寡にすぎない。ここでは部分否定され、規定される側を構成素とし、互いを互いに体系化していることはあり得ても、座標軸と中心点を定めるためにある体系の視座を拝借する。自らと思われるモノの影を構成素としてもよいのである。鏡に写った自分の像である。
体調悪いから中断 ウニウニ
たすけてマンハイム先生
普遍的イデオロギー
イデオロギー的見方を敵対者に対してばかりでなく、自分自身にも適用する勇気を持ち、一切の思想や観念を、それぞれの担い手の社会的存在一と関連づけてイデオロギーとして捉える立場を意味する。
部分的イデオロギーと全体的イデオロギーの対立構図
部分的イデオロギーは個々の状況より省みて自覚された論理の共同主観化されたのである。この論理は先立って世間に浮動していなければならない。また言説を肯定する論理を自らの状況に照応する機会が十分になければならない。
没評価的イデオロギー
単にイデオロギーと社会的存在の関係が問題とされるのであり、イデオロギーの正当性、虚偽性は問わないような立場のこと。いわゆる価値自由の立場である。
評価的イデオロギー
単にイデオロギーと社会的存在の関係を事実づけるだけでなく、評価もする立場のことである。この際の評価の基準は現実と一致しているかどうかである。
ユートピア
未来に準拠しており、現実を追い越してしまっている意識や視座構造のこと。
ユートピアが未来に準拠しているのに対して、イデオロギーは「過去」に準拠している。マンハイムにおけるユートピアのポイントは、新しい現実を作り出していくという点である。
秩序変革機能を持つ可能性のあるユートピアを相対的ユートピアと呼び、これは古い現実を変化させ、新しい現実を作り出していく可能性を持つ。
また、社会的存在を完全に超越してしまっているユートピアを絶対的ユートピアと呼んでいる
イデオロギーとユートピアの対立構図
どちらも現実に追いついていないという点では同じだが、宿命論的ユートピアと決定論的イデオロギーでは確かに、どのような努力も社会の構造変動を成さない。ただ相対的ユートピアでは人々が新しい現実を信じて、その因果を形成するための秩序の芽が発生する。それがそのユートピアの求めた現実が応じてくれるとは限らないが構造変動は生じる。
普遍性をもったというか、普遍性というよりも自己言及とか対他性判断を対自的にも適用するという客観性の方が近い表現ではなかろうか。ここでは客観的な評価イデオロギーとしよう。
客観的な評価イデオロギーと相対的ユートピアの弁証法運動
イデオロギーは過去の再帰性を未来に描き出しており、ユートピアは過去の否定性より未来を描き出しているのであって、イデオロギーとユートピアとの対立衝突が現在においてどのような形で回収されるのかが問われている。経済、法律、史観、技術のカップリングの到来可能性であり、これは過去でも未来でもなく、現実の自己展開である。
したがって、イデオロギーにはイデオロギーによりその世代の都度構築されるユートピアが存在し、ユートピアにはそれに応える然るべきイデオロギーが存在すると考えなければならない。したがって、イデオロギーとユートピアの上位概念である視座構造においては、さまざまな視座構造に定位した社会的存在の現実がお互いを限定し合いながらそれぞれの現実として自己展開する様を外観することになる。
イデオロギーよりみれば、崩壊しつつある現実であり、ユートピアよりみれば奪われ続けた現実がある。
10月5日 22時 あめ
前存在論的存在了解
現存在は自らの存在そのものに対して様々な態度を取ることができ、なんらかの態度をとっているものである。こうした存在そのものを、実存と呼ぶことにしよう。中山1.P62
なんらかの態度を示したところで、これに他者が乗っからなければ実存はない。存在は他者が示す態度をして存在可能の否定性が見出され、また輪郭が明らかになるものである。ここに、前存在論的存在了解はもっぱら規範的のもので社会的地位や権力や貨幣的価値を物象化し、それ以外の実質的推論を認めない人間を直接的な人間として提出できる。
この直接的な在り方ができないからこそ、理性においてその構造を明らかにしたいという超個人的の欲求があるので、可能な欲望についての欲求である。
頽落と動性
9月17日 12時 晴れ
朝 寝 昼 想 夜 夢
9月16日 23時 雨
仮想世界の循環的構成
創作物はその奥に世界を映しうる構造を備えていなければならない。表現ー解釈(コミュニケーション)の連鎖には、自己の世界を成り立たしうる間世界性の媒介作用がある。コミュニケーションは世界の破れを契機としているから、欲望が語りに現れるとしたフロイトの立場には合理性があり、それを破る過剰な何ものか、あるいは不足が見出される。だから、コミュニケーションは最初から倫理的な関係としてあり、各々の実存が掛かっていると同時に開かれてもいる。コミュニケーションの終了は、これから先も私が私らしくいられるという安心であり、かつそうした安心は応答可能性において担保されているから、厳密に表すとこの啓示は完了していない。翻って完了態を取らないのは過去も同様で、既往する現在が主体として在ることの可能性は未来に宙吊りにもされているから、応答に呼応する呼掛を熟語化して呼掛可能性としておくと、この主体の永続性と主体の不連続性とが応答可能性と呼掛可能性に相当する。これはコミュニケーションの連鎖のもつ間世界性の媒介作用によって、この瞬間、現在の呼応的同一が時間的には過去にも未来にも無限の振幅をもって開かれいるという全体性の一尺度としてあるという証拠となる。
9月2日 11時 晴れ
禁止される殺人とは
殺人を恐怖に駆られて為されるものとする。
恐怖は撹乱主体を明確に意識したホメオスタティック(自己保存的)な反応である。
殺人は現存を全面的に否定する。精神の新たな現出を否定し、生命か物質かを支配する法則へと帰属せしめる。
それゆえ、殺人は責任を、生命の必要を融通するに際して用いてきた社会面の同一性の要求を破壊する。
責任は他者との場に置いてある。
責任の最たる例は場に現存のかけがえのなさを正当化する行為である。
かけがえのなさは現存者の生活に関心を向け、それに命名することで事態を共有する語彙と成る。
実存者は語彙をして規範的地位を推論し、正当化する。
正当化される限りに於いて、現存者は責任を負い、実存する。
実存は主体性であって、正当化された地位を元からあったことにし、そこに定位する。
実存は自身の生活を語彙をして地位を推論し、同一性を保全する。
同一性は正当化の語彙を提供しはするが、現存は同一性から溢れ出る。
恐怖は同一性より乖離して推論こそを正当化し、現存を否定する欲求である。
(ここの推論は共同体での相互交渉を通じて獲得した常識等々、時間的振幅はあんまりない)
実存はすでにそうあるべきものとして現存を裁くが、現存は裁きに従うことで実存する。
実存は自らの地位を自覚するから規範的推論を正当化するのだが、同時に現存の命名に責任を負う。
実存は恐怖を通じて自らの地位が正当化されたことを思い出し、己の規範的推論を開く。推論が開かれる限りで、実存は現存者として自己を主題化し、他者の裁きに従う。現存に直面する原始にあってはそれを受け容れる主体を有しておらず、他者に命名された語彙をして今日実存は推論する。
認知一つにつき、正当化された地位という事態の自覚へと回帰して同一性を発見する。
回帰を生む部分的否定を通じた同の発見という実存の否定的再定位を弁証法運動と捉える。
責任は弁証法運動を牽引する主体と裁く規範的推論との綱引きで、実存の相互限定である。
貧しい実存とは相互限定の最中で、かけがえのなさを否定し、全く己の生活に於いて出会う現存(新たな自己、あるいは発達とも)を命名することができない状態を指す。規範的推論の正当性に対して、現実を正当化できない状態。自己自身への恐怖であり理性の自己矛盾である。殺人は現存の全面的な否定である。
(余談:宗教は全き実存者すなわち神との出会いをして己の実存の全面的な否定を成し、自己を全き現存者として露出させる試みであり、理性や規範的推論への否定的契機を含んでいる)
法的人格は権利の主体を有する。
有する権利とは所有感覚に根ざして責任感覚を命名した、よりよく生きる推論を成り立たせる語彙の集合である。
権利は義務を遂行する規範的態度によって保全される。法的責任感は義務をこそ正当化するが現存は正当化しない。
追求される責任には際限が存在する。
際限を規定する働きが法律であり、刑罰はその上限を示す。
実存は法的人格として語られる。
殺人罪は追求される責任の上限とその規定をするが、個別的情状は推論されない。法廷の裁判官はこれを酌量する。
刑罰による禁止は命名された責任感覚で、実存は義務を負っているものとしてこれに従う。
(なんか所有と責任についても記述しないと消化不良な気が)
愛の暴力性について
意識は身体に定位する、そして存在者と成る。覚醒を通じた心身の離別を実現することはすなわち、仮想と現実を乖背することである。意識は身体を通じて、まさに身体に必要な情報を推論した時と同じように、世界に定位する。身体への定位有って初めて世界される。
彼のいつも歩く道、そこで吸う空気、耕す水田や釣りをする川、存在者は"する"ことを通じて初めて世界する。このことを意識は世界に於いて在るという。存在者の存在という実詞化(はじまり)は存在者があって初めてそこに世界を映し出す。全体性があって初めて個人があるので無い。
神を人格的に考えることは、絶対必要なことである について
神とは呼応的同一される他者でなくてはならない。
神は無矛盾的であり、矛盾を全て自己へと反射する。ここで、神は全き実存者である。
この自己の矛盾の自覚が原罪の原型である。
神との秘蹟に念仏や儀式をして呼びかけ、啓示を受けるのは、その儀式以前的に人々に神が呼びかけていて、それに応じるという義務としてある。ここで、神は全き現存者である。
神との呼応的同一に人々が応じるので、この受けた啓示は神の意思実現の媒語であって、人々の意思実現では無い。しかるに、人々は手足であるが、理想と現実との辻褄合わせにおいて意志され、現実に呼びかけることと理想に応えることとの調整に於いて実現される。
理想を確信することが、信者が否定せざるを得ない現実に遭遇した後でいかにして矛盾を解消するのかを意志する条件である。正当化の試みに於いて正当化され、神はそれ自身によっては正当化されない。この始まりの矛盾を翻って絶対的な信と為すのが宗教的論理である。
自己の理想において生きる生き方と、ある他者の理想において意思を実現することの衝突。宗教は積極的分離であって、意志される理想を共同することは、自己の理想に於いて生きることの否定的媒介を通じた、自己の生の全肯定の論理である。
一般宗教のように全き理想世界、桃源郷、を想定するのは、その宗教という文化をいかに規範とするかに力点があるので、その伝統性たる共同体精神のその都度の発現がある。その共同体精神へと自己批判を加えて発展的に持続する論理を内に備えている。
共同体精神の発揚とその拡大的態度は真理を探求する哲学に於いて構想せらる理想である。それゆえ普遍性と哲学的論理、ヘーゲル(個)の弁証法、の占める地位は絶対性を理念(類)するが、その断言こそまさに哲学の中での共同体精神で、他の組織の理想との最中で弁証法運動する主体(種)である。
五月二日14時
呼応の原理を返却するので適当に書きたい
哲学の意義
「科学がよって経つ論理を自覚にのせ、これに主題的な考究を加えるのがまた哲学というものである。(中略)哲学的論理というものは両面を統一した論理であることが必要である。」呼応の原理より 両面とは科学に超越する面と科学に遍通し内在する面のことである。ここにおいて、個々人が哲学を自覚するのは科学的認識の営みが現状を更新していき、行き着くところまでいったのを想像したときに次に何を科学するかとか科学的認識はこのままで良いのかという科学自体の主題化が思考される。ここにおいて個々人の哲学が参照されたり、哲学的論理の自覚を促す契機となる。ここでわかるのが、科学観の更新により各々哲学的な解釈が異なってくるはずである。また途上国と先進国で科学技術の恩恵への自覚が異なっており、開発スピードの速い途上国ほど、科学の主題化が加速するはずである。また先進国でも科学的認識が国際競争において必須であるから、長期を見据えた科学観の醸成が議論されるはずである。科学という主題の時間性の振幅において先進国は大きくなくてはならない。科学に対する普遍的な観点は哲学の深い自覚であるとか、各学会の集合知、ないし通信技術の革新を通じた統計などでの予測を通じて表現される。ここにおいて科学が何の認識をこそ深めるべきかが決定されてくる。
哲学では、各々の認識により科学的認識の主題化を議論する。これは科学的認識の対象への理解も必要であるし、他の論理に基づく認識との対比、すなわち宗教的論理や生命進化、社会性の創発と発展分化の機序などである。認識が精神のものである以上社会性とは深いカップリングにあり、得られる知見は方向づけられているが、構造のフレームを解き明かすには十分であり、他の認識の論理との接近のための契機であると考えられる。
未知の探求と規範の論証
未知は自覚に登らないもの。規範は当たり前であって否定性として自覚されるもの。ここにおいて、探求の論理である科学は我々の生得的な身体性を越え出て技術的身体経験を必要とする。規範の論理である社会や心理の解明は、事実を一通りに解釈するという形式論理すなわち論証の同一性を徹底した論理は裁判に用いられる、のと対照的に、事実の各々の解釈を許すという論証の同一性を捨てた自覚の論理、即自かつ対自という自己言及的論理として現れる。とはいえ、哲学に立脚すれば、探求によって得た認識で探求するという全科学の営為も自己言及的である。一方で、社会的探求の同一性を強く主張し論理を展開すれば、心理の側がひどく符号的かつ非統合になり、心理的探求の同一性を強く主張して論理を展開すれば、日頃自覚しないような社会の恣意的な立項が可能となる。自己言及的なる規範の探求は相互否定性のある弁証論理と場所的同一性から組織せられる必要がある。もちろん、技術的経験による身体性の拡張はいずれにせよ必須である。この技術的経験という事態はまた探求する研究者だけでなく市井も同様であるため、社会的認識と心理的認識とこの身体性の拡張を通じた身体的認識の三者で場の同一性の収束をともに達成するような事態を志向するのが自己言及的探求の尤もな態度である。
5月1日12時
共同主観性の自己展開
同じ場を共有して、同じ肉体的緊張を経験し、社会的緊張を経験している中で二者の意識は同様に働く。祭り応援団ライブなんでもよい。この中にあってこの場の同一性は、同じ太陽を見ているとか同じ地に足をついているとか同じように感じているという実感を伴う。認識と生命とが同じ地点に立脚しているためだ。こうした共同主観を自己に対して用いると、記憶という言語を媒介として、いま記憶の形態については考えないが、過去における私という他者や未来における私という他者との対話と交渉を通じて今現在の成就ないし限定がある。共同主観性において自己といや過去の自己の目指すところの意味を再解釈し、あるいは歪め、未来の自分の自由のあるところを今現在の自分の為に活用し、自己中心的なるものは場所的同一性を伴っておらず自己の破綻に常に直面している。これは他者の労働や他者自身を私有することによって贖われ、これが過去か未来かの自己であってあるいは他者一般である。本来物に対してはこうした認識で物の本来性を自由に解釈し、洞察し、自己の用に足す。あるいはこうした物としての他者が却って想定した通りに動かずイライラしたとしても、物そのものの在り様を観察するという文化は他者の心の文化に触れてからしか得られぬというようなトートロジーがある。ここにおいて、社会性、いや言語使用によって露呈している我々の社会性は、言語使用だけで無く、母の意図を汲み取るという試み一般はこのトートロジーをすでに超越していることがわかる。これは母より分離した我、だけど一緒に生活するという形でその繁殖形態と家政からして社会性のあるのが人間である。
非人称的彼と矛盾し対立する我々を包摂するのは結局彼と我々とを包む場の形成、すなわち現状の場所的同一性の棄却と新たな論理の形成である。彼を訪れ、その具体性に応えることが不可欠である。いやそもそも我と対立していた未来あるいは過去の我との統合を思い出すだけで良いのである。彼の過去の意思、これを呼応的同一において共同に取り持ち、彼の未来の希望を共に担うだけで良い。
非人称と責任
責任は本来場所においてある。生じた責任はまた言語や法や経済といった共同体を浸透する論理によってこれを無限に広げる。したがって問い正される責任は無限責任である。社会はそれぞれの共同体ないし個人に責任の帰属先を求める。責任者という非人称的人格が生まれ、責任追求の際限が定まる。責任に対して人格的追求を案ずるのはその有限化された責任を無限に広げるものであって却って相互浸透している社会に対する追求である。したがって罰を下すこれもまた非人称的公的人格、の罰するのと同じ論理で制限される。罰されるのは私的(共同体的)なる人格で、訴え出るのと同様に私的人格である。法が罰する対象を私的人格という個別性を取り扱うのに違和感を持つのであれば執行猶予や酌量という許しを思い出してほしい。これらは法的人格を越え出た私的人格に対する措置である。
非人称的な法的論理とは別の法廷における場所的同一性において裁判が行われなければ私的人格を見ることが叶わないのである。
共同主観性の解体
共同主観とはそもそもが理念的なものである。具体的事実のいかなる点を主題として、いかなる論理で認識を深めるかというのの集積である。それらは意識によって統一される。曲の全体像を把握しておらず、任意の地点より歌い出す事は出来ないが、いつもの場所より歌い始めると終わりまで歌える様な、それでも共起するコーラスやベースすら意識しているような認知である。
こうした瞬間における意味の収束と拡散は共同主観性そのものにも妥当する。
全体にあってもはや持続のない主観は、そのよすがを心に文章に肉体に残して、また新たな種となる。言語は新たな共同主観性の立脚地であり、具体的言葉それ自体は共同主観性の論理によって解釈される。このトートロジーは社会性のあるという我々の前提を思い出すだけで良い。
スクボのページと概念同士の創造
科学的認識においては大抵、一つの元となる素子や要素が理論によって同定され実証によって確からしさが学会に認められればこれを齎すさらに一つ前を探るべくこれまでの事実から知識を総動員する。これは一つの素子とその挙動がまた別の素子の言及を間接的に証明するのであって、認識の仕方のこの手法の同一性を徹底しても概念同士の創造は生まれる。というかその時に概念同士の創造は加速するとみて良い。さまざまな分野の分化をみてもこの加速を求めてのことであると思う。
スクボにおいては、この創造の時間軸が線状的でない。一つの概念Aについてのページは既存のページや外部リンクとの連関を通じて記述される。Aのページは他のページの記述に使われるので、その参照元であるAも他のページの影響を受けて、すなわち共起する他の概念の言及を受けて再構成される。認識の同一性を徹底し、一つの概念の多義性を排したのが科学的認識であれば、こうしたスクボのように節操なくリンクをつけて概念の多義性を尊重するような情報空間においては、水平的な概念の創造としてイメージできるような転導、すなわち強度のある情報としての概念のありようとそのプラットフォームとなる輻輳的論理による認識が考えられる。輻輳的論理の要素となる特異性のある概念のこの呼応において特異性の推移とそれに伴う概念の水平的創発が考えられる。これは科学的営為を否定するのでなく、特異性の同定に垂直的創発である科学の論理のもたらす認識が必要であるし、水平的創発を説明するには垂直的創発の挙動の、垂直的創発を説明するには水平的創発の挙動の理解をしていなければならない。
呼応的同一性は真に推移を表しているのでなく、未決定性を伴っている。計算論的にこの水平的創発の計算はできるとも思われる。これは概念の共起するタイミングのこのプラットフォームを同定することとその推移を推論するのである。しかし、このプラットフォームの秩序を記述するには時間振幅(因果推論)による認識でなく、可能な推移先としての認識であるので、無限に近い計算が必要そうだ。
私:一人称の意義
私とは場的同一性における発話の、発話者を指示する語彙であって、自己同一性を指示していない。具体的な人との関わりにおいて私という語彙は具体的内容を伴う。私という語彙が喚起するのは発話者であって、どのような場においてもこれは変わらない。
間主観性の論理において、他者はまず自己の鏡像として現れる。これは身勝手な自己の押し付けであって、本当はその解釈から溢れ出るのが他者であり、その他者の同一性は自分との差分の自覚からはじまり、その人格の全体像の中から類型化された一つのカテゴリーに当て嵌めるようになる。
「私は日記を書くぞ」さて、ここで固有名詞”かりふぁ”を一人称として用いた場合は、「かりふぁは日記を書くぞ」この具体的発話に結びついた述語についてアイデンティティが掛けられているように感じる。これは場の主導権と関わっているのではなかろうか。とはいえ自己をその場一つと同一化するのは不安定化を招く気はする。
4月26日9時
人の見積もり
人は見積もる。特に未来の自己とともに何かを達成するためには見積もりと作業の分担の確認が必要だろう。しかし見積もりの射程はこれだけではない。トールノーレットランダーシュは素朴な認識論しか持ち合わせていないのか、人が感覚の統一すなわち知覚においてこれらの見積もりを働かせ、過去においては未来を予測する活動をわずかの時間をかけて今に見せているという点に気づかず、自由意志を無化する論証をしてしまった。かれの紹介する実験は偉大だが彼の思惟は物理主義の延長にあった。結局のところ未来は束縛されているし、これは今までの因果推論の積み重ねであって、しかし過去の予測に生きているという以上現在のこの点は不確定であると言える。この不確定である現在を産出しているのは一瞬前の過去であるが、身体の因果推論の自己発展と意志と一瞬前の過去と今との差分がもたらす何かによって媒介されている。差分すら因果推論されているうちに予測されている。とはいえこの予測誤差ですら、今どんなイリュージョンを構成するべきかという指針として予定されており、誤差の大きいのですら予定調和的である。イリュージョンを創作する意識にとって誤差の収束しないのがバグとなる。空間を把握するために視覚像を統一しようとしても、およそ睡眠時のREMのように広く上下左右に高速に目を動かすとこれが統一できず、頭に非常な負荷がかかりまたじきに疲労し、目を動かしたのでいつもの像よりも広い像ができるので無く、何も統一的な像は産出されない。
身体的因果推論と概念的因果推論
前者は技術知で後者は論説の知である。前者はぼくは身体の側に元々備わっていて、それらが意識に知覚として表出されているというふうに考えている。
4月23日 15時
表現と解釈について
場と主観があり、これを客観に置いて主観との場的同一性を形成するには客観と主観とて再帰的に解釈(物理法則に従った振る舞い)と表現(表出)とが無ければならない。
この必然は、体験を一にする主客両者が互いの身体性について反映し合う現象を精神性の側より見たのである。
表現者(主観)と表現物(客観)の間に成立する場の表現という作用はこれであって、主客の同一性と相互浸透を指摘できる。
解釈では客観と主観とがあり、表現物を現じせしめた場的同一性を構成するモノである。表現を形成した主観とは表現物を解釈する主観を表現者の境遇への了解より変形せしめたモノであって当の解釈者でも表現者でもない。これにより構成された場的同一性より表現に明示的な対応のある意味を超えた含みのある意味を抽出するのであるし、表現者もそれのあることを期待して表現物を形成している。
4月22日19時
デカルトの神
存在させるところのもの
物質を認識することは神を介しているとは言われない。
精神と物質のみでこの世界は説明可能である。→自然学的な認識を援助
20時
認識システムと社会システム
社会の信頼
構造の再帰性を認めるシステム。信頼において地位があるものが認識を成立させる。認識は個人より見られるもので、社会は超個人的な認識を説明するのに役立つ?
4月21日18時 雨ときどき車の窓曇る
自己同一性と世界
自己同一性は集団的アイデンティティの様相を示しており、本来他者の態度より自らの地位を措定するときにもっぱら使用される。
現代社会に特有な概念:個人性なるものを一旦脇において人が自己同一を確かめるのを考える。
まず概念と認識について考える。概念これを分析し要素分解することなければそれがいかなる因果で現れるのかを想定できない。ここで概念と構成要素とを関係づける認識の流れが生じ、またある論理を省みることでこの流れの拡散が収束する。
またこの概念を構成要素とする上位の概念を自覚する時にこの概念の現出の限定せらることを考え、より別のあり方を論理によって想起し、実証を通じて確認するのである。ここにおいて、概念、これは集積したり摂動したりするようなもっぱらエクリチュールのうちエアプしたスティグレールのいうような自己発展のあるところのエクリチュールである。認識力とは単に概念よりさまざまな他の概念とを転導推理するような非常に初歩的な推理から深く実在を反省した数学の論理を含み、その解明力はただ論理的でも飛躍的でもなく、論理的かつ飛躍的のあるものである。論理もただ、この論理が解明する世界の表現への自覚がなければ論理でなく、その自覚までに飛躍的推理の幾重にも巡らされたのを経ていなければならない。また飛躍も、論理的因果律より超出するのでなく、論理が表現しきれなかった前提条件や見落としを自覚するのであって、真に論理的でないのでない。
こうした学問の実証的認識の体系はさまざまな概念とその相互作用とを明らかにしてきた。一方で、主観的な信念の体系はどうであるか、学問は社会システムであるから、我々がなにかを知覚する時に光や音といった作用を通じて行うのと同じようにコミュニケーションといった相互作用が前提されている。したがって本質的に同じでないが、一方でその体系の構成せらる作用は同じである。ここで、学問の体系のコミュニケーションではエクリチュールを取り扱うのに、個人の体系では共有されない概念すなわち観念があるのである。実証を報告し、資格のある他の構成員の態度に応じてその解釈とエクリチュールにおける知がまた地位を得て、報告したり承認に関わるなどコミュニケーションした構成員は権力を得るのである。いや、まぁ社会システムがより多く報告するものにより多くの地位を与えると仮定したのであって、実態はブラックボックスであるものの、その社会システムの消滅や拡散のない範囲で権力と地位の分配はなされる。またその社会システムの側の論理も人の可能な状態推移を超え出ることを構成員に要請したらば破綻が自覚されるので、権力がいかにあってもその構成員の秩序を完全に封じることはできない。
ここにおいて、学問のうち例えば物理学が対象とする知的概念これは実在を抽象したのであって真に実在でないのは、世界の諸々の現出の自己発展を無限であり予測困難な事象のうち、分析的実証や他の知的概念の作動を通じて認識力を一部に集中することによって、実在のうちから種々の知的概念を同定し、同一性を持たせた、対象もその同一性を同定せらる潜在力のあった、ものとして地位を与える。こうした学問の体系は本来我々の社会に露呈した実在を反省し、其の客観のありようを主観を廃して考察したのであって、規範的に構成員の態度で決まるようなものでないように思う。しかしながら、現代より超越せば、中世のキリスト教圏ではキリスト教の教えが絶対であるとして議論がなされたのであって、この具体的に思惟する主体の態度が社会システムの根幹であると言わざるを得ない。
愛と動機(欲求)と感情について
愛は感情ではない。愛は動機ではない。愛は自己と同一視された者の総体の具体性に応える恒常的な営為である。
動機(欲求)と感情とは互いに主観と客観の反対より省みたときの概念である。
動機が喚起する具体的行動は個人の意識変革より超出して環境を変革するようにみえるが、その環境の変化か変化した先の状態は愛によって自己と同一視されていなければならない。
感情が環境の変化や変化した状態を察して、矛盾や肯定を意識に示すのはその変化がやはり自己同一的な変化でないことに由来しており、愛に先取りされている。
具体的行為を文化によって提案されていなければ、高度な動機はありえない。
共同体の文化、帰属先の論理によって具体的な行為が象徴づけられていなければ、そしてそれを自己と同一視していなければ、いかなる現実にも感情は応じない。
愛によって同一視される考え方や感性が働かなければ具体的行為は動機にも感情に影響を与える要因になりえない。
愛の総体は構造を伴っていなければならない。
構造はこれまでの経験の中で得た、考え方と試行錯誤の総体である。
自己同一性の構造と環境との相互作用において、感情が発露され、動機が自覚される。
甘えとは
甘えとは動機の弱なることである。動機によりて内発的行為と宣言との乖離が露呈して甘えが自覚される。
宣言とそれに付帯する責任とこれに呼応する個人の能力とあるは具体的に利用可能な種々のものあるいは行為とが整合していない様態である。この表現ではほぼ無限定であるので、甘えとは宣言する主体の属する社会の構成員より見たのであって、この宣言にふさわしい理想をこの社会が共有していなければならない。この理想の実現に際して露呈した種々の問題はまた理想を自覚することによってその解決策が見出されるのであって、この理想より乖離するような現実を媒介する行為は規範的でない。また社会全体がこの理想の実現を媒介する主体でなければ規範的でない。甘えの図式は課題と解決との不整合を宣言主体に着せるものであって、その宣言に共同にコミット(参与)した構成員を背景化するのである。
4月20日11時
差延(スティグレールのエアプ)
人と技術をともに定立し、対立や共生というような構図を作り出す。またこれらが私のイメージではルービックキューブのごとくガチャガチャ運動すると、発明として、頻繁に利用される技術の顕在化として現れる。発明を特異点として、差延のたえざる運動と特異点の布置から定立される技術と人の関係構図は結局のところ発明が生み出す潮流によって相互浸透的に組み変わっており、しかし一方で、技術の発展がルービックキューブを大きくしたりなどの新たな差延可能性を拡大させるとともに、発明がその可能性を収束に向かわせるような仕方で特異点の配置と数がガチャガチャ揺れ動いている。
スティグレールのエクリチュールはこの差延的な世界観を用いて社会システムを眺めたのであって、エクリチュールと知はまたその対立構図は権力や地位と言った特異点とそこから生まれる潮流とで相互浸透的に組み変わっていると考えられる。
4月19日22時
転導推理を使う理由
転導推理は特殊項から特殊項への因果推論であって、背景になんの普遍性のある言表の自覚も伴っていない。
怒ると思ったとか、別れ話だと思ったわとか、ある種のネガティブな予期は生存本能だと思う。
4月17日9時
夢意識と弁証法運動
無意識を世界を構成する作用とし、意識を世界を統一する作用とする。夢意識と夢世界においては、環境を与えるものが無意識であり、ここにおいて無意識は構成的であって、一方で外環境からの有意味な刺激が無い。外環境にある存在者とのあるいはそれを通じた意思との呼応無しには、いかに世界を構成できるのだろうか。内環境:信念の体系のうち利用可能であるのは心象として経験のうちに現実と照応するこれらのイメージである。これら内環境を因果律と心象に各々分割すると、心象が空のまま生成できることがある。一人の人を見ればその幼少期の実在を導いてよいし、それまでみた顔について構成力を働かせると、ある程度の粒度でその見たことのない幼少期の顔の心象が得られる。
覚醒時の経験において構成せられた心象とそうでない心象は、個人の意識では区別されないが因果律に照らした経験の反省を通じて自覚される。こうして心象は概念の因果律の反省を通じて異なる心象を構成できるが、概念は心象の構成力を通じて異なる概念を形成しもする。石群や模様の穴よりその配置を見て"隠れミッキー"としてミッキーと同一化することが却ってそのミッキーの概念の構成力の認識を強化しミッキーという概念自体を高度に抽象化せしめ、ミッキーの概念を変形させる。認識や因果律は今日、社会の側の代弁者として立ち現れてくるが、結局これは自己の作用であることを自覚しなければならないし、ここにおいて自己完結的に弁証法運動をすることができなければならない。他者性無しの運動を反射運動と呼ぶこともできるが、呼応する他者をどの働きに定むるかによって現出者は異なっていなければならない。したがって断続的に覚醒せらる状況下では反射とは言われない。いや、宇宙史においてはこの他者性すなわち他の宇宙の観測できなさによってその反復運動と呼ばれるものしかない。
夢世界を構成する無意識ではその心象の構成力にて参照される感覚刺激はないものの概念の因果律への信頼とそれぞれの概念と共起する心象が参照され、次に与える世界の構成を媒介する。ここで夢意識では、いくばくかの不整合や葛藤が生じ得るかもしれないが、その葛藤は翻って構成力の側に要請されるのであって、いや夢意識が感じる感情に整合的すなわちフロイト的無意識を代弁してくれるのであればその葛藤は夢世界の葛藤ではないし、却って整合的であり、構成力を肯定しもする。ともかく構成力に不整合が生じれば夢が現実より乖離して覚醒し、感情が正帰還して臨界すれば覚醒し、夢意識は弁証法運動の必要がなく、またその痕跡が露呈しもしない。したがって、夢とは概念に構成力と心象が支配せらる状況であり、対となる現実では、心象が因果律と概念を構成し支配する状況である。
直観と全体
認識の作用からの遊離とは心象の構成力が随意であることで、翻って他者と自己とを隔てることがない状況である。すなわちここにおいて自己意識は絶対有でも絶対無でもある。ブーバーはこれを主客未分のままで向き合うと肯定するだろうが、そこから抽出された概念的意味がなければ、いまとここを超出することができない。いや構成力をこのままとして世界に浸かることがあるならば、その概念の認識力の方を無化して因果律の否定の方の弁証法運動、逆向きの弁証法運動をすることが考えられる。一方の世界を追いやることが、近代現代社会の病理として数えられるのであれば、もう一方を追いやることで発達するような社会システムもいずれ破綻を見ることは明らかである。ここにおいて、生物の発展と遺伝子システムの有機体実現とシステム間の作用、共生や食物連鎖、を顧みることがこの中間点やバランスに何某かの特異点を同定する上で必要条件である。また人工知能として自然知能に類比的な計算論的アプローチもそれらを自覚しなければならない。
解釈と表現の連鎖と宗教のプラットフォーム的表現
真理をどう表現するかによって各々の哲学者の解釈が現れてくるのでなければならない。真理の表現に分散があってはこれは矛盾的であって議論の余地がないではないかという矛盾がある。しかしながら、人間は無批判に歴史を受け入れるというような時期を子供の頃に経ている、経験したことへの矛盾を十分に表現する言葉も、いやその解釈の手前の概念形成さえできていないのだから。
ここで真理表現の分散は共同体精神(理念)と現実とを因果律に照らして解釈した時に、現実に対してどのように概念の布置をさだめたか、その概念間の作用にはどんなものがあるか、それは理念を通じた翻訳がなされているか(他者に理解可能であるか)があり、それぞれ他者の解釈が無節操に与えられ、それらに一定の秩序が形成されて初めて有意味となる。真理であるからにはその無節操な解釈について意味に回収せられなかったものが、それらとして一定の秩序を形成し有意味となることはあってはならない。全て誤解や個人差といったノイズに落ち着かねばならない。
共同体精神(理念)は、歴史的に真理とされてきたものとその概念の布置と作用との結晶を物語に表現したもの(神話)や事実や普遍的表現を資料にまとめたもの(学問)である。この準普遍的な理念は純粋理念と比較して、無限の繁栄を前提とせばいずれ同一となることが推理できるが、準理念の論理を子孫に押し付け続ければ、その理念と対する反理念を合一化せる運動が停滞し、純粋理念までの道のりが遠のく。ここで、準理念の論理を自由に解釈させすぎると、却って準理念の解体と無化を意味する。この解体を回避するための自己忘却を媒介するものを逆向きの弁証法運動を媒介するものを宗教とよべる。
伝統や歴史などの共同体精神は単体では解体される運命にあるものだが、理念がそこに留まり、形を表しているのはこれを増大させる秩序すなわち宗教の実在を意味する。感謝を通じた理念の浸潤と、理念に媒介された理想であるとか、理念を通じた現実の向上すなわち理想への同一化とか、因果律や努力の肯定をして共同体精神の再生産の枠を確保するといった営みである。個人においてみれば宗教は、物事の本質を含むものであり、本質を単純かつ基礎的に表現し、全てのものの見方を露呈させると信じられるものである。この普遍性は共同体の構成員がともにコミットすることで大きな秩序と準理念であることによる少数の反対派を生み出す。
ここにおいて自己、共同体より小さい共同体ないし個人、に自由があるいは自由の程度や範囲が邦や共同体の発展度合いを示すものになることがわかる。自由を加速させても乖離しないだけの宗教的基盤があることで、共同体精神が大きくまた普遍的に更新される原動力を得ているのである。
相互浸透
新たな論理の自覚に照応した自己と他者との合一化、自己同一性の拡大は、他者の破壊と自己破壊の運動とも捉えられるが、自己が徹底して自然であれば、他者の包摂を可能とするように思われる。論理を自覚する認識力の側を遊離させると、超自然的に全体感が意識されるが、一方でその心象の構成力は認識力が産出した概念とその間の作用(因果律)の自覚に基づいているので、心象の構成力ただ一つで随意が実現されるとは言われない。ここで相互浸透が提唱される。
他者の包摂をそのまま実現する超越が罷り通らないと自覚されることで、超越を保留して他者の精神を他の語彙で限定せずそのまま無限定に敬い、またその意志実現に対して心を遣わすことで少しずつ浸透していこうとする試みである。この論理では私を徹底的に自然に還すことは意味せず、私を変動するのと同様に私の意志実現が他者を通じてなされることを見届ける有様に意味を見出す。過去の自己と他者と相互浸透した後の自己との自己同一作用によって自覚された論理やそれを運用する認識力が自己を超出する最小であろう単位である。
相互浸透はこの構造的ドリフトにこそ着眼点が置かれており、この予定調和的でない自己超出が可能であるのが相互浸透たるところである。準伝統と準伝統とがあらたな語彙をしてより普遍的な準伝統を産出し、共同体精神の再生産に寄与することが考えられる。他者性が無限定ではなく、社会的階級に基づいているのがポランニーの相互制御の原理であると思う。また、この挙動は遺伝的アルゴリズムにおいて実現できると思う。とはいえ浸透せらる自己を遺伝子として符合可能かという点とその切り出しに問題がある。切り出された単位から情報量の期待値の高い順あるいは自身との乖離の少ないところからコードを書き換えていけば良いのである。
14時
劣化 減衰 雑音
ディジタル情報と対比させたアナログ情報のデメリットとされるものたち。
アナログ情報をディジタル情報にすると情報量が膨大になるというよりは無限大の情報量を前提に符合化した時にアナログ情報とディジタル情報が一致すると表現できる。とはいえそんなことはできないので、本質が異なるなぁ、アナログは連続でディジタルは離散だなぁぐらいの認識でおけ。
ディジタル情報は矩形波、アナログ情報はサイン波であるように想起されるが、本当はサイン波で符合化してしまえばディジタル情報も連続にみえる波を扱えるが、結局区切りは存在するので断続的に有限区間のサイン波ができる。
ディジタル情報は劣化も減衰もノイズにも免れるんだーということではなく、もちろん影響は受けるがパリティビットに代表される誤り訂正とかの技術を使って多少のノイズに免疫を持ち、また劣化の原因が明示的であれば例えばドップラー効果とか、それらの影響を数式で表して工学的に有効な程度に抑えるように訂正する。減衰だって定期的に複製しつつ劣化に対して誤り訂正をしたり、より安定的なメモリにバックアップをとるとか。人間とは別の時間感覚のコンピュータが扱える情報がディジタル情報なので、人間とは違う仕方で人間に都合の良いように情報を加工することができる。
アナログ情報とディジタル情報で、人の解釈がどうとなるわけではないが情報量の少ないディジタル情報に特有のなめらかでないあの感じは認知に負荷がありそう。
計算機とそろばんとかディジタル時計とアナログ時計がディジタルとアナログの対比に使われるが、あいつらの数値表現は離散的な形式を持つのでちょっとめんどくさい。砂時計とディジタル時計とかそういった例が良さそう。砂粒も離散値じゃん!っていう言及は工学的に連続と言い張れば良い。あとは化学変化でやるアナログカメラと画素で表すディジタルカメラとかも良さそう。分子も離散値じゃんという言及は(略)。
15時
人のコミュニケーションの変化について
一般教養のある文系の方が詳しいはずだが、なんか情報の教科書にありがち。
符号化自体は暗号として軍事に利用されており、歴史も古そう。また数字の習得が離散値である指との対応づけから習得される、数字の歴史はわからん。でもインカ帝国とかはひもの結び目の数で数字を表したのでこれはディジタル的な符号化っぽい。
コミュニケーション論を歴史的に外観するのは大事だけど、それは社会科との連携で進めた方が良いと思う。
16時
論理学 倫理学 美学
哲学の3分野である。哲学が哲学らしいところは、自己言及的なもんではと思っていたので、なんかこの分類しっくりこなさある。
道徳
道 人の道とかそれぞれの生き方における道だろうな
徳 品性とかモラル(習慣・風習)
4月14日20時 じめじめ
規準と基準のちがい
基準とは科学的だか客観的な指標をもとに分類するような具体的な判断。
規範とは文化的に傾向性のある特徴だろうなぁ。
規範を犯すとは
皆が共通して示している態度とは異なる態度を示す
皆の話題をメタ的に認識して、みんながよって立つ前提を揺るがす
節操なく他の対話鯖の慣習を持ち込んで、対話とはどうあるのかという意味を飽和させる。
基準がおかしいとは
判断基準に基づいて判断される対象の様態や作動を表現できていない。
対象から基準を導く際に恣意的な操作が紛れ込む可能性がある。
オートポイエーシスと他者論
他者論とかジェンダー論は社会と心理の交点だよなぁと思ってて、ブーバーやレヴィナス、人生訓めいたなにかで語られる普遍的道徳と具体的な心遣いや復讐とか、これを機序の側から包括的に理解できないかなぁといった気持ち。生命の世界と近代物理の世界、量子の世界と粒子と波の別れた世界、社会的同一性と自己同一性。計算論のクラスタリングと人間社会の規範的意味。
4月13日11時 寝違えて首辛い
なんかちょっと思い違いとか操作ミスからくるヘマが増えた気がする。自閉して夢の中で何がわからないのか評価できないところに自分の限界があるので、悪い兆候だとおもう。
コミットメントとは
暗黙知の次元、潜在的次元にコミットメントを掛かり合いとする訳に個人性と実践性、対象の内部に食い入る執拗さ、身内の衝動にせきたてられるのっぴきならなさ、失敗を孕んだ危うさ、などが込められているらしい。
4月12日10時 太陽強すぎて禿げる
表現に呼応する現実感の解明
意識このイメージ全体性を型取り、認識これら概念が呼び覚ます意識の注意と却って感覚刺激のパターンが認識と随伴していることで心象を安定化せしむ。表現にあって一つのあるいは断片的な情景これを表現する過程であるいは情景の連続のパターンとか叙述の線状性であるとかに強いられたこの間隙に本来不連続で一瞬の情景これを一度解体し、統一作用によってこれを表現するとか強い比喩によってこれらの全体的構図を一挙に描こうとかする。いやこの比喩でさえ統一作用の元の構造的類比を用いているので却って統一力より脱することがない。
表現における表現者の現実感とは表現せらる心象を想起しているのでありはしないとでも、しかし表現する場とその体内の作動を包括的に把握することが困難であるから現実感が作用するところ本来見えない。一方で認識より返ってみればこれらが表現せらる心象がむしろ呼びかけているので、本来求められている現実感これがないことで負の現実感というものが立ち現れてくる。この負の現実感とは表現者の体内の作動に呼応し、これより撹乱せられた生命システムの反応が意味となる。この負の現実感が引き起こす意味に呼応して、類比的な状況の現実が立ち現れた時には、むしろ能動的にこの生命システムの反応が感ぜられることで却って現実感が過剰となる。過剰な現実感が心象に虚像を紛れ込ませる。この正帰還は認識の作用と、とはいえ心象がもともと含んでいる現実感を低減させる負帰還の作動によって徐々に正されるが、認識がとうの生命システムの反応に言及し始めたら止まらない。なぜ泣かない、なぜ痛くない、なぜ嬉しくない。これらの波に認識が意味を問いただす限り正帰還はとまらず、この不幸は意識されることで頑張ってしまう。表現の呼応とはこうした認識にある種他者を介在させた随伴がなければならない、とはいえ本来生命システムの言及は確かに自己の身体に拘束される。これらの他者の意識を通じた言及を物理的世界においてはいけない。身体性とは反対の概念の世界に配置せられ、心象のうちに浸透していくと考えなければならない。ここで仮に生命システムよりの撹乱とせば、却って他者をミラーニューロンと身体における痛覚などを通じて他者の心象を把握するとされ、これでは自己の経験に閉じていると考えられる。この身体感覚に説明を加えるのは認識であり、概念の世界の側に根本を認めなければ世界そのものが他者と共有されないためである。いや、そもそも他者を概念で説明する際に、これがある種視覚的に捉えられた諸特徴量から翻って心象に映されて認識として記述せらるところが、その他者性が概念を基礎とするところがある。
自我の本質を概念的な自己同一性に求めれば、他者を物質的作用のあるところとして解釈しても相違なくなる。同一でない心象より同一化せられる働きに自己をみとめればこの心象源泉すなわち直感的構成力にこそ、種々の記憶の総体や傾向が詰まっていると考えられる。
4月11日 20時 涼しい
末法相応
歴史的な構造的課題に限定された現実の場の相対的な状況下:時機において、翻って無限定に正しい理念絶対的理念:理念を振り返ることにより実現されるこの限定された今の解釈を無限定にする。これは構造拘束性においてその順応と反発を迫られるのが構成員の常であり、その挙動もそれに収斂され、かえって構造拘束性を意識せざるを得ない。ここにおいて理念は超自我的な社会システムの構造拘束性に縛られないための要請であると解釈できる。
したがって、構造の中で閉じて呼応する時機にあってその構造の外のルールがあることで構造の境界を飛び越える。
構造の外は常にカオスというわけではなく、他の構造そのものの特異点が持つ引力によって行為や経験を解釈するときの尤度的引力がある。この尤度は外より見ればそれが意識されるが中より見ると却ってその構造での上昇志向、私的論理のせめぎ合いの力が顕在化され、却って特異点が意識されないし、もとよりその構造に浸っているものはいっそういしきされない。
ここにおいて時機を脱するところの理念は構造の中の特異点であれば、結局構造のうちに解釈せらる概念を与えられ、却って行為主体の自我が希薄となり、その理念が他の構造の特異点に範型であれば他の構造に参与するよう働きかけられ、却って自我是矛盾的同一となる。構造群の構成員のうち相互に理念される特異性を閉じて持っているようであればこれが世界精神となる可能性をもち、これが他の摂動を包摂し、特異点を言及的に拘束する。末法において理念が絶対理念を向いているときは却ってこれらの構造群の特異性は相互に破壊する(弁証法運動する)が相互参照しているのであればこれらは閉域を成す仕方において肯定される。
4月10日2時 寒め
社会システム
弁証論理は共同体において自我をお互いに相殺する営みで、集合知的に集団における構成員の現実感を社会システムに編入するものである。一方で、社会システムに概念を見出す自我の営みによってある種その理念に反しない形での自我の行使がありえる。根本的に弁証論理はその共同体の持つ理念が喚起するいくつかの行為を媒介するのでその理念の解釈のうちに戯我の水かけ主張が展開される。理念があることによってそれ自体が構成員間の地位を形成し、理念を再生産する主体を養成する。これにおいて理念の摂動可能性が戯我の自在性を助長する。いや、そもそも承認欲求をもつさまざまな境遇の個体と共同体精神に基づいた公共的な承認のシステムそのものは自我の戯れ、戯我のなせる技であり、本来その精神を振り返ってみれば理念を破壊し生成する大元として戯我の叫びいやこだまを無視することはできない。
理念の無限定性とは、ずらかしであるのか
自分のかかげる義務道徳が世間の判断で調和的であること、義務道徳的理性と欲求とが調和的であること、そもそも世間のうちに対立を調停する価値判断がなされる基準があることが義務道徳的主体性に制限を課していないかということ。
理念は本来無限定でただ媒介されるだけであるが、それに色を加える戯我が存在することが問題だと思っている。義務道徳とは自ら義務を背負って主体性を演ずる理性のことである。通俗的欲求を公共の論理で翻訳したものが義務道徳であるし、本来欲求に根ざした義務道徳を掲げるのであるが、公共性のうちで主観的側面を排除することを求められるので結局通俗的欲求を排除する態度を求められる。公共の論理が、主観的側面を排除するときに、持ち込まれた義務道徳を判断する過程でその表現が私的充足を誘導するところに問題があるように思われる。根本的に私的充足とは、共同体の充足である限り無限定に肯定されるものであり、共同体と構成員とがよそよそしいものであるという自覚が、却って他者の誘導を否定するようになる。共同体の論理が全員の意志実現を媒介する容量がないので、実現せらる意思とそうでない意思とを判断せねばならない。そこに共同体の側が個人の意志実現がむしろ共同体の再生産であるという自覚が要請され、却って個人の意思を増長せらるような呼応をもつ。ここにおいて経済的合理性の元の意志実現の呼応を増長しすぎてより個人を煽り付ける社会システムが貨幣によって評価せらるという事態に及んでおり、問題である。経済的合理性とは経済システムを通じた集合知であり、これも弁証論理の社会的地位を生産するシステムに類比的である。ここで社会的地位とは却って経済システムの従属項になりえる。本来いくつかの社会システムを統御するのが政治システムの言及システムたるところであるが、経済システムを通じて統御することで、無限定の理念に経済性といった合目的性のみが顕在化する社会が出来上がる。
理念とは未来に対するオプティミズム以上の意味がない、そもそも理念の実在を信じるが実現されること全てを理念に着せるところと、その都度現状をその理念が実現した歴史性を感謝し、それまでの試行錯誤における不整合を切って捨てるような反弁証法的側面を持っている。ここにおいて呼応せらるのは現状の構造拘束性を受け入れるが、その限定を歴史性につけて理念の限定をせず、したがって科学的認識を経てこれらの構造拘束性を認知しながら一方で倫理を無限の彼方の理念を却って実現する全ての営みについて言及させ、これらの歴史を再度受け入れることを希うような弱者の態度である。弁証法運動しない理屈で弁証法運動する諸社会集団をまとめるというような矛盾。集合において積を求めるような否定的弁証法運動ではなく和を求めるような肯定的弁証法運動の理屈をよばねばならない。これは大なる統一において社会システムが個人を殺したのとは異なる論理である。社会の側がこれは俺がしたかったことであってるよと追認するようなことと、俺がしたことを認めて引き継いでくれと個人に懇願する態度でもある。
概念を限定する具体的思考とは
経験は意識(心)と運動と認識(理性)に分化される、便宜的にそうしており本来はもっと分化せらる余地があるだろうが、生命がなせるところでは3つで十分ではなかろうか。認識の側からすれば現状の経験を再度実現させるにはその経験の同一性と操作の同一性とがなければならない。幸福を最大化するというようなことは幸福に相当するような経験を判断し、それが引き起こされるときの前後の関係やその幸福に付随する現実の諸要素の統合、これらを理性は無意識的にも意識的にも行っている。いや、意識が呼び覚ますさまざまな色を用いて認識をしているとも言える。表象あるいは情景とは本来心の側の営みであるが、それが文字を認識したときにも現れきたるところに、意識と認識の相互性が見出され、分割困難にしている。一方で、愛犬をみれば、それは現実が付帯しているかという点で認識を駆動させ、認識そのものを別の現実に符合させることはほぼない。いや、もちろん飼い主との呼応のうちにお手すなわちご飯を演じているが、それは飼い主という社会的地位を用いたもので自ずからお手に情景を重ねているのかは不明でしかない。あれれ。
概念は具体的思考において経験的表象に結びつけられるが、具体的思考はそのよって立つ認識の論理がなければならない。この思考において論理は主観的な妄念であるが、科学的手法を用いることで徹底して主観を除くことが可能である。概念を思ったときに共起する経験的表象の共通項を取りまとめるのは直感の側、心の側であるが、認識はその心が方向づけた内容に左右されて思い出される事象とか矛盾に対して盲目になるなどの誤作動をする。これは認識のよって立つ論理からすればノイズであるが、認識が自覚する論理をより精度を高めるとか、他者との会話に使えるものにしようと主観を廃するのであれば、これは科学的あるいは公共的な属性をえる。科学と公共ともに弁証論理によって高度に発展する。そこで実存範疇を提供するこれらは概念同士の呼応においては機械論的、予定調和的な運動をし、そうでないところに、概念を新たに生み出す源泉がある。いや、認識の論理においても、概念が取り扱う物理的な空間が限定せられて、その中で下への分化をするときに新たな概念を介在させるのだが、この抽象的概念は位相が異なっており経験を経ていない。
4月7日18時 涼しい
知覚と本質看取
知覚するとは刺激を感覚する働きの統一作用をいうのであって知覚において現れる表象は統一作用の結果に過ぎない。この心象は種々の時間性の統一によって、それゆえさまざまな概念の現象的随伴のコラージュであり、それをいくらまじまじと捉えたからといってその統一作用が同じものを再生産し、より細かな差異に偏執的な意味を皮肉的な意味を見出す以上の効果は期待できない。
感覚器障害(ここでは後天的なものをさす)と知覚
知覚において視覚情報からの撹乱が優位なのは全体を細かく見ることができるからだろう。視線は手よりも高速に動くので視覚情報を処理することで存在分節が容易にできる。音について振って聞いたり触って確認したりするよりも視覚は雄弁である。一方で、嗅覚はその場において存在を主張する。それは嗅覚の取得するパターンが、概念群よりも豊富にあるからだろう。こうした特徴をもつ感覚器を途中で喪失することで、知覚のこの統一作用は混乱する。視覚情報を処理していれば理解できることがそれが入力されないことで、全体性を失うからだ。一定のブレイクスルーが来ると、音響情報をあるいは道具を通じた触覚の使い方を学び、現実を分節化し、あるいは分節化するための特徴量を取りまとめ、それぞれの行動おいて取得可能な情報量の算出と、現在の情報量で表現できる表象を提示する。
読書における表現と解釈の運動
詩的な情景描写では、その表現が情景を表していなければならない。しかし、その情景を幾何学的な普遍的な形状を用いて必要な記述をしたところで、その解釈は捗らない。表現とはその文化的認識の諸様式に基づいて解釈されることを前提として表現に書き下されなければならない。その言葉が共起する情景、その動作が類比的に示す関係性、矛盾に込められた皮肉。足が一本折れた、3本足の椅子とはその椅子自体は自立しているものの、座って安らぐことのできないようなバランスのものとして読者に提示される。これがドラマ版では座っても安定しているように見えようが、読書体験のうちには決して座りたくないものである。鉄格子の窓や肩にぽんと置かれた手など、独特の意味を持っているものは、そうでないような映像が与えられても読書体験では誤謬がないほどにそうである。この解釈は心で起きるものである。テキストにおいて矛盾が提示されないかぎりは、解釈違いが起きることがない。あるいは、読書中に矛盾を包摂して心のイメージを書き換えた時は、後でその本を語るときに、あるいはその本を冒頭から読み返すときにはもともと持っていたイメージを忘却して新たに得たものを思い出す。表現においては心のイメージをさまざまな文化や概念同士の比喩的関係を通じて表現し、解釈においては、またそれらを通じて心のイメージを醸成する。統一作用においては、読書体験の違いは、文化や了解している概念同士の関係性の違いとして説明できる。解釈が表現を前提とし、表現が解釈を前提とするとき、とうの心のイメージそれ自体は合一であるように感ぜられ、あとになって矛盾を発見しない限りは世界を共有していると捉えることができる。矛盾によって分節されるまでのこの場自体が一つの概念である。
葬式で涙が出ないことが悔しいとは
ひとは自らの態度を評価する。この評価は社会の側から規範的に与えられるものであり、自ら悟るものでもある。状況の悟性的な判断で、現実を評価する。翻って感情とは、自己同一性と現実の乖離から現来る種々の矛盾警告装置であって、自己をどう捉えるかであるとか、現実を如何に捉えるかで変わってくる。良くしてもらった人の葬式で涙が出るとは、ある種その人との表現-解釈の世界を前提として自己の概念形成の過程に組み込んでいた、したがって自己矛盾とその人で媒介される再帰的現実感が期待できないことによる喪失を自覚すると感情が沸き起こると想定できる。
したがって涙が出る出ないとは、その人と深く関わっていないだとかを暗喩するが、ほんとうは依存的か自立的かというコミュニケーションそのものに対する態度如何で、人と相互浸透することで自己を拡大させているかどうかである。
影響を受けたということと、人との場を介して相互浸透し、自分を拡大的に捉えた自己同一性を保持していることはコミュニケーションにおける態度の差であって、ものごとを真に受け止めているとか、今をいきいきと生きているとかいうこととは関係ない。人の言語使用が象徴的にであるために、情景を表現するとそういった涙や嗚咽が強調され、その象徴的な挙動が規範的となり、翻ってそれに反する様が違反的に映る。
表現-解釈の運動とか呼応の場とか
概念の体系を、個人の中で保持している概念同士の関係のネットワークが、その摂動や挙動を通じて表現が創発される。一方の概念は常に固定的なままで抑圧され、一方の概念はさまざまな概念と関係を持たされる。この関係性の移り変わりが次に表現するべき記述内容や記述を読んだあとのイメージの産出をする。この場自体は一つの同一性を持っており、解離性の挙動があったとしてもこれは同一律を保つ。脳をミキサーされてネットワークそのものがなくなるとか、脳が全く動かないとかそういったことがない限りは。これにおいて産出される
読書体験において、文字を追うとなぜ情景が見えるのか。
そもそも人生経験が乏しい生後何日の赤子にとって、情景を思い描くような素養はない、例えばろう者は触覚や音響定位などそれぞれの仕方で時間や空間を把握している。「古池や蛙飛び込む水のおと」にて情景(絵画的なものや苔の匂いなどと飛び込んだ後のポチャーンという音)が喚起されることは感覚器の欠如如何では変わらないが、赤子では喚起される経験の集積がない。
読書を経験したことのない者にとって、アルファベットを習いたての日本の中学生ではなく母語児を対象とする、この文字列によって喚起される意味内容は存在しない。音声から喚起される情景はあるが、文字からは喚起されない。もちろん文字を音声にすれば想起される情景はあるが、それでも現実が随伴していないので絵の助けを得ながらである。
4月6日 13時 暑い
精神(感性)の充実と身体の充実と統一作用(思惟)の充実
ジル・ボルト・テイラーの左脳が壊れつつある時、それゆえ弁証法運動(概念形成の過程)しない理屈で認識をしているときに、精神の充実が顕現した。統一作用の充実にあっては、スポーツバスケのシュートとかフリースローでイメージ通りの運動があるいは反復的に学習させた身体の運動を通してイメージ通りのボールの軌跡を目で確認するようなこと。現実においてその解釈をか不足なく与えられていると実感できる状態。身体の充実とは睡眠における実存、食事における実存、感性や理性とは別に、もともと思惟されるデフォルトの身体の表象とは別に、そもそも思惟の統一作用の精度とか根本を支えるもので、とはいえ三者はともにお互いが根本だが、感じる心も思惟する頭も安定的な土台となる身体を、再帰性を担保するような身体を求めており、それに呼応して両者は身体の声を聞く。その根本は両者の超自己的な作動であるが、遺伝子もそれを了解しており、身体の具体性を要求し、そのままに享受する。
歴史とはそもそも体系だっておらず
それぞれの学問分野で妥当する領域において
それぞれの歴史性が顕在化する
思惟の統一作用が精神の側に傾倒するか、身体の側に傾倒するかによって自律的な作動を一時的に消失したら、精神における充実が全面に意識せられ、身体と世界が相入り混じり、弁証法運動しないことでまたこの一瞬が永遠に感ぜられる。あるいは、
4月5日0時 晴れ 涼しい
心の上に構築される世界として、読書体験があるだろう。しかしこの時は夢意識とは異なり実感にそぐわない葛藤を無意識的意識的に解消するような"読み"のなかでの弁証法運動がある。小説の冒頭に語りがあれば、その語り部がどんな人物であるかの想像が、言葉の端々に登場する語彙の美的ブリコラージュとして女であるか強気な性格であるか趣味が何であろうかという人格構成と人物像の呼応が動く。夢体験では葛藤が生じると世界の側が改変され夢意識にはそれが自覚されないが、読書体験ではその自覚が生じる。
4月4日 11時 晴れ 暑くね?
形式が質料を規定する
昨日の概念の呼びかけの例では概念自身が何らかの形式を得るように自我によって要請されている。言い換えると人は自分とはこうであるという合目的的な指針即ち個人的理念を自分の境遇に合わせて規定することによって、未知の状況において適切に得られる情報量を最大化して状況を統御する。しかし、人自身ではなく、人と世界を共有しているモノの概念については、それが同一者であることが一見要請されていないように見えるが、そうではない。観察を通じて現象学的還元をし、十分多様な現出、十分な情報量を入手(シャノンサプライズが閾値を下回る)することで状況を評価するための下地ができる。そもそも世界をある程度把握できなければ、世界の情報量とそのエントロピーを理解して世界を評価できなければ、自我が未知の状況とか個人的理念を通じて得られる情報量を最大化することができない。したがって形式は質量を規定するが、規定される質料の情報量が最大になるように形式の体系もその都度差延されるということである。
こうした形式の集積は過去の総体と言い換えても良いが、過去を過去として分離している時点で非過去であるし非連続である。連続的だと自覚されるのは自己という概念・個人的理念を想起した時に過去の経験が参照されて他の概念との相互作用を思い出し、その都度の今の自己限定を成しているからである。今の成就とは過去を踏まえて未来を見据え、その過渡期としての今を受け入れるということに過ぎない。今という一瞬に過去から未来までの振幅・眼差しの射程があるのだが、自覚された過去の経験や概念がなければ今において自我は接しないし自己限定もない。夢意識においても現実に接地していないが推論自体は可能なのでこの振幅はある。こうして形式や質料は、概念同士の呼応として意識的時間性のうちの弁証法運動として捉えられる。物理的時間性のうちの物質/物体同士の物理的運動とは対照的である。
ユヴァルノアハラリが虚構を作り出すのを人間の特徴としてあげているが、概念形成の弁証法運動自体は動物もする。即ち虚構に住んでいるのは人間だけではない。弁証法運動しない理屈での認識、即ち直観的な理解とか遺伝子に符牒された直接的な結びつきをもつ撹乱。そういった比率が人間の方が少ないと私は思っていたが、実はそれが勘違いで、ただ概念同士の呼応に他者の実存という概念。他人の個人的理念と我の個人的理念の呼応を実現したのが人類であるだろうと考えた。共有可能な虚構、人同士の概念を関係づけて共有可能としたことが差異であろうとも思う。
解釈的創発と表現的創発の説明をしたいけど諸々の諸前提に対する自覚がなさ過ぎて無理。
それさえわかれば計算論的な意思疎通の実現ができそうだけども。
現実における諸現出と諸概念の布置との対応関係、諸概念の布置を諸現出のパターンに落ち着ける過程が弁証法運動。
諸概念を運動させる思惟主体即ち弁証法運動における物理法則のような相互作用を規定する法則において成立するのが呼応の原理。
今一度社会システムとか言語体系について考え直す必要がありそうな予感。
4月3日 22時 晴れ 涼しい
概念と概念の対話についてもう少し構造を明確にしたい気持ち。
自己という概念の挙動
例えば人生における幸せとか意味について、特定の社会集団ではなく自分自身に対する自己同一性の上での人生の幸せや意味がこれ即ち自分という概念によって共起する表象である。ここでは直観を表象としている。本来的、非本来的に限らず、人生の意味や幸せは自覚を伴う。ここで自覚される意味は自我という諸作用を通じて同一的な現象を実現できるということであり、制御困難な課題に対して人生の意味に立ち返り、何をするべきかという決断がされている状態を指す。抽象的な自己という概念が具体的な挙動として実現する(自己限定する)のが判断という自我の作用である。非本来的状況であっても、自分という概念に共起する表象と現実が乖離していれば矛盾を解消しようと認知を働かせる。(自己限定未遂の自己否定的作用)ここにおいて働く認知が当の解決策を得るとは限らず循環的に非本来的状況に止まるのが常ではあるが、他我を媒介として答えを得るなどの突破が考えられる。これは主体的に行動した結果得られやすい現実ではある。自己否定的作用が強調される経験であるが、主体的な自己限定である。これは他我を継承しており、自我何%他我何%という議論もでき、一方で純粋自我とは野生であり文化を継承しないものであるからこの日記でさえ他我の関与を疑うことはできない。
自我と他我
自我の判断において、他我が関与することは述べた。これによって自我と自己という概念とは別であることがわかる。漁師の自我は自身の概念を通じて漁業をし、農夫の自我は自身の概念を通じて農業をする。一方で消費に際しては市場や親戚付き合いでこれらの品の分配をし、各自の生活が成立している。自我の判断は他我の判断を前提しており、循環構造をしている。したがって、昨年は農家として自己限定していた人物が、時勢の影響で今年は山菜採りや薬師として自己限定することもあり得る。こうして、自己という概念は静的な同一性ではなく弁証法的な同一性、弁証法運動する。もちろんその人物は本来的に農家という職業を志向しており、遣る瀬なく別の職業に就いているかもしれない。一度農家ではない自己という矛盾を自覚すれば、あるいは農家を継続していても、農家からの脱落という矛盾を自覚して、農家を自己の理念として崇めるのであって、自我の判断は理念を通じて自己を限定するが、参照される理念が現象化しない、自己限定しないのであれば、ゲシュタルト崩壊し再帰性を探索する。このとき自己という概念がなくなっているのではなく、概念が呼びかけている、呼応の原理的に、に過ぎない。自己という概念の呼びかけは主体的に、帰ってきた応えを受けて再帰性のある状況を作り出す。
3/31 0時 晴れ 涼しい
解釈 解明 究明
究明は事態を必要十分な語彙で説明できている。解明は問題や不明な点を明らかにしているので、十分な語彙で説明できているが解釈の余地は残ってそう。解釈はどちらとも取れないという時とよって立つ理が恣意的であるような暗示をしている。
夢がなぜ記憶から無くなるのだろうか。弁証法運動されていないからではないかと思われた。これは仮説だ。
夢について自覚される意識、睡識(造語)と弁証法運動について。
夢は夢であって外界の網膜刺激をそのまま受け取ることはない。また外界の接触刺激も、ベットの上にあってさまざまな形態の接触刺激を受けることから日常的な連関をそのまま受け取るとは考えずらい。夢は起床時に覚えている夢がそもそも少ないらしい。睡眠時間の20%が夢であるそうだ参照 この仮説の自覚としては、たまたま覚えている夢がつまり起床後数分後に記述できたような、起床後の意識で因果推論され、概念化された夢を夢そのものとして捉えていないかという疑念だ。夢の実体は映像を触覚を入眠時自己意識:睡識が受け取ることであるが、睡識は推論できる。ゾンビ夢の中でもこの子は噛まれていないかと想起したり、運転夢でもどうすれば隘路から抜け出せるかと映像が3人称視点になって考えたりする。こうした場合大抵納得したり解決して睡識と夢は合一化される。またある時、ステーキを食おうとする夢が食べた瞬間羊羹になっていたが、これは睡識は矛盾なく受け入れた。推察するに、ステーキにおいて想定された反射神経の挙動(食感の弾力)が発生しないから羊羹として提示されたのではないか。こう想定した場合、睡識は非常に受動的ではあるが随意であり自在である。ステーキを食う前確かに、フードコートに在りおじさんからステーキを受け取るの映像を受け取ったのにもかかわらず睡識は食感がないという葛藤や矛盾を夢の書き換えにおいて帳消しされた。睡識は推論できることは確かだが、葛藤を生じない。答えが提示されているか、世界が描き変わるか、葛藤が生じたら覚醒するかのいずれかである。したがって因果推論、弁証法運動はできない。 睡眠麻痺もとい金縛りは睡識でありながら、最低限の試行錯誤ができる。平衡感覚の失調をいかに乗り越えるかという模索であり、指を動かそうとする試みである。また覚醒を挟むことで意識の補助を得られる。とはいえ、その試行錯誤があって初めて成功しているのかは不明確だし、繰り返す睡眠麻痺は苦痛だ。最近金縛り来ないので、もう試せないかも。これは覚醒を挟むので事態を難しくしているので考えないでおく。
睡識の随意性は因果推論すなわち弁証法運動による信念と世界現出との矛盾の解消をしていない裏返しだと感じた。もちろん、推論はできる、だが葛藤がほとんど許されていない。とはいえ睡識は悪夢によって苛まれる。これは感情面、すなわち扁桃体からくる葛藤で、大脳的でいわゆる理性的な推論からくる矛盾ではないから当たらないのでははないかと考えた。
睡識とは夢という心内部の世界に住まうものであり、唯心論が妥当する意識である。一方で、心は常に夢の中ではないため、信念の発動に運動神経反射を前提するような、逃げる時の走りや障害物をうまく避ける、食べるなどにおいて解釈違いが生じうる。この運動神経反射や温度電気感覚、聴覚、尿意を一時的にとめるあの感覚を外部末梢神経刺激とまとめておき、視神経や水の不足を測る神経など中枢に直で繋がっているのを外部中枢神経刺激としておく。心は中枢神経のどこまでであるのか、わからないが、視覚はさまざまに睡識に映像を与える。一方で、信念として期待された外部末梢神経刺激が伴わないあるいは信念として期待していない外部末梢神経刺激があった場合起床したり、夢の書き換えが起こる。書き換えについて、ステーキの例と、睡眠時に単曲ループしてた曲のライブを見る夢を見るし、尿を止めるあの感覚が尿の夢を惹起することがあるのでそれも追加しておく。こうして、起床後に短期記憶に残った夢の断片を因果推論もとい弁証法運動してさまざまに関連づけることで想起を可能とするネットワークを構築する。夢の中にあっては夢というゲシュタルトすら困難である。明晰夢の類はあるが、夢ならばなんでもできるとしても、信念された外部末梢神経刺激がないとの葛藤が生じて起床する羽目になることが考えられる。夢においては夢の中で適応できる信念というものの形成ができないことを考えればすなわち弁証法運動できないので当然である。
夢の世界の視覚像をもたらすのを先ほどまで視覚としたが、視覚は外部中枢神経刺激なので心像と言い換えておこう。
実は俺たちは唯心論を呈することができる。自己意識のうちでは心の信念体系において外部末梢神経刺激を期待する信念を形成しているが、これが実は外部ではないという説だ。もっと外部の信念を心に抱いておりそれを強く信念し、許容可能な矛盾を超える苦行をおこなえば目覚めるという睡識を考察した時に得られたあの論理の延長である。しかし、期待する外部刺激がないほど目覚めに近づくという悟りでありなんとも矛盾する所業が求められる執念というか妄念である。
16時
睡識とVR
睡識の弁証法運動しない仮説が正しいのであれば、睡識は認識一つとっても夢世界から与えられており、なんら能動的な感覚を働かせていないのではないかと思われる。しかしそれは誤りで、次何が起こるか、どんな反射が期待されるかやどうやって逃げるかの推論はしている。推論はするが齟齬が起きても夢世界が解消するので葛藤しない。ここに睡識の特徴がある。これに睡識を発動させた状態、無意識のままVR環境にはいれるとしよう。睡識はコントローラーの感触を期待するが、そこにはないので、恐らく画面のなかに入り込むか覚醒する。しかしVR機器が提示するのはコントローラーを動かした結果であるので、ここに因果関係は成立しない。それでは第三者の操作をVR機器と睡識の肉体に対応づけて信号を送るとする。画面が移り変わるごとに特定の情報パターンが肉体に与えられるわけだ。仮説では睡識は概念形成をしないが、運動神経に関して、次なんの反射が得られるかということを睡眠中でも学習できる可能性がある。睡識が視聴する映像と与えられる体性感覚や内部感覚が一定のパターンを得ていれば、映像と運動のパターン認識が否定できない。概念形成を用いてさまざまな行為や物体を同一化した上での認識よりは、すなわち弁証法運動よりは効率が落ちると思う。純粋経験から主客の分離となるのではなく、主客の刺激それぞれが機械的に定められて、のちに経験を与えるからだ。ともあれ、与える映像がそもそもアバターやテクスチャを人が設計したものであれば、同一のような単位をわかりやすく提示できるはずだ。とはいえ、脳の本領は概念形成にあると思う。これではノートPCの強化学習したAIモデルに優れるところがないだろう。
予測変換がむずいから睡識(すいしき)を夢意識(むいしき)と読み替えよう
具体的思惟と夢意識
信念の体系は具体的思惟、体験を通じて得た思考が呼び出される。概念を現実に充てるとき、概念が呼び出す知覚が随伴しているかどうかが概念の存在を宙吊りにしている。未だ意識に与えられてない概念であっても同様に、随伴する知覚の信念の体系に対する弁別が決まった時何であるかが意識に与えられる。夢意識では概念の解釈違いすなわち葛藤が起きても別の概念の表象が降ってきて、もとよりその概念を保持していたかのように事態が進む。因果推論して、概念の同一性を保全しようとするのであれば、解釈違いにストーリー(時系列)を立てる因果推論が不可欠である。その時に自覚される法則が理性的な論理とか真理とか呼ばれるものである。弁証法運動する自己意識を理性と特徴づけるのであれば、理性にとって表象は意味ではなく、むしろ忘却作用である。
3/29 10時 曇り 涼しい
特殊な体育の授業に行く前にトイレに行く夢を見たが、カオス。その前の脈絡では、宿泊研修で、授業が始まる前に何かを説明しようとしてたが、言語野がカスすぎて伝えられないという感じ。多分寝てるワイの脳の負荷を超えたんやろなぁ。多分なんだかんだ高校生活に思い入れがあるんだろう。メンバーもそうだし、とはいえちょくちょく外国人が出てくるのなんだろ。
3/28 20時 晴れ 涼しい
AIは真理を計算論的に迂回する。
真のモデルにノイズが乗ったのがデータである。過学習ではサンプルデータから過剰に学習するとテストデータに対してちゃめちゃなモデルになってしまう。分類やクラスタリングにおいても、観測した特徴量データはキッパリと枠にはまらないのが普通である。というか鳥の分類もなかなかで典型的な鳥もそうでない鳥もいるので言語学の分野でも同様だと思われる。進化の流れ的に分類するのか、見た目の近さで分類するのか、歴史的な紆余曲折もあるだろうというところ。AIはその点、特徴量の計算とサンプルベクター間のマージンあるいは重心の計算とかをするだけなので真理を必要とせずに(いや教師ラベルは真理だろというツッコミはしらん)予測を可能とする。人の信念も、こんなもんだろうとは思う。どの真理を使う場であるかの文脈さえ教えることができれば、とはいえこれが難しいのだが結構進むと思う。
22時
もしかして、日記は遺言では。
田邊元のメメントモリを読んだのだが、以下の一文がなかなか
code:メメントモリ2節最後らへん
このように生死が自然現象の如く客観的事件として存在するものでなく、あくまで個々の実存的主体に対して自覚せられる媒介事態であるのみならず、生と死とは、前者の終末限界として後者が前者から予想せられるところの事象であるに止まらず、自ら進んで生の執着を抛ち棄てれば、かえって死が生に復活せしめられ、愛に依って結ばれる実存間において、それが実存協同として自覚せられ、死せる先進者の慈悲は生ける後者にはたらくことが実証せられると同時に、その感謝報恩のため、更に自己の後進者に自らの悟得せる真実を回施し、その後進者をして彼に固有なる真実を悟らしめる結果は、疑もなく死復活せる生を本質的に喜あるものたらしめる筈はずである。
意識の消失は自然現象として解釈できるようなカテゴリではないし、生が死の自覚を死が生の自覚媒介するだけでなく、先駆的決意性、自己に固有な実存に投企すればかえって弟子や子孫によってその影響を感謝され、その決意を引き受けてもらうことがある。そのバトンは、受け継いだ人が自身の活動で悟った真実が紡がれるが、本質的にはその歴史的全体性の代弁者というよりも、愛によって結ばれた感謝する対象、すなわち彼の弟子(孫弟子)の立場での喜びである。
俺が全体性と無限を読む前にその本に予期していたことを田邊が描いていた。全体性と無限わからなさすぎんごw。来世読む。
3/26 14時 あめ 蒸し蒸し
自己実現と自我の成就の違い
自己実現と自我の違いは、自然の道理から離れているか否かであるのか。いずれにせよ主観にとってそれが自己実現なのか自我なのか、その違いを認識することは帰還作用によって確かめられるようなものである。自我の成就の過程では視覚像にて見えないけれど阻まれる壁に他我が位置することになる。
自我とは彼を取り巻く間柄の欲望関係にある。多くのフォロワーが金や時間よりも重いということである。欲望関係のなかでより自らの生き方が他者に望まれることで、自我の随意であるという状況を目指すものである。これにおいて、自己同一は無く、その場の流行り廃りを悟ることが却って自己実現であると自覚していることである。実際に流行りを迎え容れることで、周囲の好反応が予期され他者の望みを得られるし、少なくとも他者の悪感情から身を守る口実も伴っていると認識され、実際に欲望関係にて生活するのであればこれが尤もで予測不可能性を低減してくれる普遍概念だと自覚される。自己実現は自己肯定感に結びつくが、自我の成就とは自己効力感とも呼ばれる。効力とは他者の行為を変革させるという感触によって帰還される。
自己実現は自己というものの範囲をいかに定めるかという問いによってさまざまである。体が求めていることすなわち生理的欲求を満たすことが自己実現にもなり得るし、株式会社の取り締まり役として、会社の運営を占い、従業員が使用できるリソースを増やしたり利益率を増やしたりすることが自己実現として自覚されることもある。自我においては自己意識に同一性を見出し、それが妨げられないこと、随意に、予測不可能性を最小化して生活できることが真実となるが、自己実現においては、自己と自覚される視点をどのように取るかで、その生命システムの道理を尊重したり、会社とそれを取り巻く金融システムの道理に強く影響を受けたり、振る舞いの基準と視点が異なってくる。所属する社会的アイデンティティを尊重し、それにに駆動されるのが自己実現であり、集団アイデンティティの中で上位の地位を目指すのが自我である。
15時
規範と論理の違いってなんやろ
規範からの逸脱と論理からの矛盾。んにゃっぴ。
3/25 22時 くもりときどきあめ 蒸し暑い
無意識は犬にもあると思う。
ワイの犬は音質に敏感ではある。破裂音や金属音を鳴らすとというか、生活の中でどうしても鳴るのだが、こちらの顔色を伺っている。大抵の場合、音源である物体に関して注視するが、ワイの操作が付帯していることに気づくと、いつもは動いてないものがワイの操作で動くと最初のうちはビクンとするのだが、次第にワイがそのゴミ吸引機を操作しようとコンセントをつけた段階で遠ざかるあたり多分ワイの操作が付帯すると動くことに気づいている、その時にワイが近づくだけで小屋へ安全確保したり、ワイの挙動を見ているので、ワイの態度によって環境物の振る舞いが変わりうることを認識するには、無意識的には環境物を物体とみなして何ら自律的な挙動をすることはないのだという安堵が裏切られることで、意識がその矛盾すなわち偶然性に精神主体の存在を洞察するあたり、無意識的な経験から立ち上がる矛盾を意識によって因果推論することができると考えられる。
社会の発展度合いと自由
全体性に回収されない自由な生き方を志向する際に、ただ面前の権威に反抗することや、反抗する集団に属してその中で自分の立場を建てて承認されることが重要なのではない。つまり、抽象的な概念同士の対立構図はその時代の特異性の布置、特異性というのは抽象概念同士の対立関係を説明する現象や経験を概念化したものに備わる性質であるが、その諸特異性の布置が顕在化する対立関係に参与して一方を強調し、他方を負かすことは重要ではない。その抽象的善なるもの、秩序、の間の対立構図を破綻させることが翻って将来異なる秩序からの弑逆という世代間自然状態なるものを回避する手立てである。現状の対立構図を生産する秩序に参与するのではなく、対立関係にあるものを自由に越境する精神とそこに続く文化が必須である。思弁的に思想は行動を変えうるが、一方で唯物論的に行動は思想を変えうる。思想も行動もどちらが先行するのかなどは程度の差である。実践を通じて双方が矛盾を解消し研鑽されるという見方が妥当であろう。話をもどして、対立構図の中にあって、一方の中と一方の外、それらが呼応しあい、矛盾を解消するための青写真を共有し、現在を否定的に実践することで統一が図られる。統一が続くと、その中で機能分化が加速するので結局潜在的には一即多、多即一である。結局統一後も、対立構図によって加速せられていた機関が衰退し、他の面にリソースが分配され、ことなる矛盾が顕在化し、今までの矛盾を解消した成果と比較される。結局統一は分化を産み、潜在的な矛盾と顕在的な矛盾が入れ替わったに過ぎない。
根本として、現代はものがたくさん作れるので発展したというよりは、社会が滑らかに争いを激化させずに矛盾を解消できるような仕組みができたということが唯一、今の社会の発展度合いとして解釈できる。
3/24 20時 はれ 蒸し暑い
概念は対話している。俺たちはそれを媒介する素粒子だ。俺たちは概念にとっては自然的物理的な何かであって常に受動的であるような存在である。
僕は解釈をする。自然に対して解釈をするので、自然は当然表現である、知覚された表現物は表現する主体を当然持つので、僕たちは自然の表出を通して、人格的な神的なともかく精神主体と対話しているのである。この対話の空間は呼応と呼ばれ、呼応の原理、に基づいて一つの世界を映し出す。却って超主観的主体などというものは独我論を演ずるまでもなく、ただ世界を持つことができないし、純客観的なる世界はどの意識にも登ってこない、知覚され得ないものである。
対話的な場においてのみ世界が成立する。
感覚した知覚情報がどのように解釈されるのか、それは場の構造がある程度決まっているというか、我々はその解釈を発見する主体であるのだが、あらかじめその原因が場に存在していなければならない。解釈は自己限定的に自由である。
場においてその秩序が価値づける行為あるいは地位は秩序を再生産する所を抜きにしてはあり得ないが、個が所に参与するかどうかは個の自己限定的自由の結果である。
知覚の抽象具体の別は場における所の地位に相当するものではない。構造は抽象具体を決めうるが、次の具体を意識するは抽象を自覚しているからであるし、抽象もそれを演じる具体的経験がなければ棄却される。
概念の具体抽象について、抽象でいえば、液体を見れば透明性や粘土を分析して存在の同一性を分析し、個体を見れば反響音、硬さや色、構造の部分の分析をする。抽象的な分別、物質と物体の別はここの経験に自覚的でなければ見出されず、また潜在的に行為していることもしばしばである。具体で言えば、同じウシを見ていて動物学者と酪農家、狩人によって各々分析する手立てが異なるが故に、ウシの概念が異なっていなければならない。また一瞥すれば、実在を確信することができる概念でもある。
抽象化は、実在性、リアリティに応じて見出される。したがって、得られた抽象概念はもとよりその場にあったものを発見したのであって、創造したのではないように感じられる。一方で、抽象概念はリアリティの多様性を説明するために、具体化される。抽象的概念が生み出すひとつの機序にしたがって機能分化したり分節される意味が構造化されている。
異なる抽象概念が分節する意味、すなわち異なった価値観に基づく多面的な解釈の余地のある主題に関して、我々はそれの争いを演じるが、これは概念によって決められているようにも見える。したがって、これらの概念の対話を前にして、俺たちの精神とその呼応は概念同士の呼応と同一である。
エモ情景描かないと
ご飯を盛り付ける。
料理教室に行っていたが、出来栄えはインスタにあげるほどでもない。
田んぼに出かける。
ジムに行ってから、バテなくなった。
環境に呼応して、日差しも虫も、辛い仕事も苦にしない。
誰彼に何かといわれたからじゃない。
時期がうつりかわる。
この街はOOO(エモ情景タイトル)だ。
過去の頑張りが実りれば、生まれ変わり表舞台へ躍り出る。
一瞬に全てが実現する。
一瞬が全世界に融けて鮮やかに。
この街で生まれ変わる。