「ある単語から離れて「事象A・事象Bそれぞれに新しい名前をつける」ことで議論を明瞭化する」という話についての感想
そしてここで述べられていることをまさに今の問題に当てはめるのであれば、個人的には、久住さんが問題にしたい事象(あるいはそれを引き起こすような作業)に「定義(する)」ではなく、別の新しい名前をつけてほしい。そうすれば、久住さんが問題にしたい事象が、「定義」の問題かどうかということについては議論する必要はなくなる とすれば、久住さんの提案は「『語義の聖域化』をするのではなく事象にこだわる」という形で、一応「定義」の(あるいは「定義」が引き起こす)問題とは分けて考えられるのだろうか。であるならば、今回の話の本筋は「『語義の聖域化』ということで指示される事象がどのようなもの(問題)であるか」と、それが「事象にこだわる」ということでどのように(なぜ)改善(解決)されるのか、ということであったのだろう。
それに対して「『語義の聖域化』ということで指示される事象が本当に『定義』の問題(『定義』が引き起こす問題)であるのか?」という話は横道的なものだったのかもしれない。
(別の話になるが)しかし、上のような対処法によって今までの議論が枝葉的な問題であったと判明したとしても、今までの議論も「断じて」不毛ではない(少なくとも自分にとっては)。(今回では)「定義」についての自分とは異なる見解を聞くこと、あるいは自分がどう考えていたかを振り返り、言葉にすることなどは十分有益なことだと思う。議論は必ずしも「何か目的やゴールがあってそれに直線的に進まなければならない」わけではないと自分は思う。 不毛ではない理由をいくつか挙げるのであれば、検討された過程が蓄積されているから。そして、同じ主張が何度も繰り返されて議論が並行線を辿ってはいないから。
ただし、もし久住さんが「問題にしたい事象はあくまで「定義」の問題である」ということを(も)主張したいのであるならば、上の対処法は使えない。そして実際に議論ではそういうこともあり、したがって上のような対処法は有効である場合もあれば、そうでない場合もあると思われる