「20世紀文学の未来」
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Discordから転載↓
埴谷雄高という作家が『20世紀文学の未来』という文章の中で、文学について以下のように述べています。 それ自体意味の限られた文学を作者が組みたてて読者に渡すと、読者はそれを彼の脳裏で復元するのであるが、その復元作業に必要な想像力なるものは、ただに作家の想像力に協力するというより、読者の脳裏自体がひとりの作家の想像力としてそこに働かなければ十分な復元はなし得ないのである。従って、読者のなかには各人各様の復元と理解の仕方があると同時に、また、各人各様の作家的努力があるわけである。このように、想像力を媒介物として読者もまたひそかな作家活動に従事するということは、あらゆる作家が先行する他の作家の作品を読むことによってのみしか出現できないという秘密を物語っている。 つまり埴谷は、文学とは想像力によって復元され、またそのことによって読者をひとりの作家にする、「作家(的想像力)促進伝播装置」のようなものだと表現しています。
また、現代において、この文学は二つの「事実」によって消滅せらるる可能性があるといいます。
一つ目はスポーツに代表されるような単純明快な、それだけで完結している一回きりの事実です。 二つ目は人工衛星に代表される、深く巨大な現実の奥から頭をもたげてきた事実の先端です。 一つ目にはもはや文学のもつ想像力の入り込む余地がなく、現実感が真実感を押しのけてしまうといいます。しかし文学はこのようなものを相手取る必要がないといい、真の脅威とはならないといいます。
二つ目は少し複雑で、深遠な現実はまさしく文学の想像力のフロンティアであり、単純な事実とは違いそこに文学の活路があるといいます。ですが、同時に進歩は将来的に貧困や戦争の絶滅をもたらすやもしれず、それこそが文学の本質的な消滅をもたらすかもしれないと説きます。つまり文学の想像力が扱うべき諸々の問題が解消され、文学が自己消滅してしまうという事態です。しかしこれも絶対的な脅威ではなく、独裁者などによって我々の進歩や発展も容易に否定されることは明白であり、少なくとも(この文章が扱うような)二十世紀の現象ではないといいます。
ですから文学はこれらの事実によって末細りになりつつも、一つの点を除いて死刑執行にはまだいたっていないと結論付けます。
そして一つの点とは、想像力を働かさない作者と、同じように想像力を働かさない読者が、同じコンベアーシステムに乗って次々と作品を切り替えてゆくオートメーション化への踏み出しであって、この傾向だけは増大するだろうが、上記の二つの事実に比べれば文学の本質にとって決定的な脅威とはなり得ないものである、と結んでいます。 私が面白く思ったのは、現代はまさにこのオートメーション化が進み、それを理由に文学の衰退を嘆く人々も多くみられるなか、埴谷は彼にとっての文学にはそんなものまったく恐れるに足らないと断言しているところです。これには様々な解釈が可能でしょうが、興味深く感じました。
↑ここまで
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