J. ロック
イギリスの哲学者
『人間知性論』において「人間の知識の起源、確実性、範囲ならびに信念、意見、同意の根拠と程度」を探求した。
この課題はデカルトのなかにすでにあり、後のカントの『純粋理性批判』につながるテーマである。 本書のなりたちについて読者のおこころを煩わしてもよいものなら、申しましょう。私の居間に五、六人の友人があつまって、本書とはひどくかけはなれた主題を論じあっていたところ、四方八方からおこる困難のまえで友人たちはすぐさま途方にくれてしまいました。私たちはじぶんを悩ます疑惑の解決に一歩も近づかずに、しばらく困惑していましたが、そのあげく、私はふと、じぶんたちの途がまちがっているのであって、このような探究をはじめるまえにじぶんたち自身の能力をしらべ、私たちの知性がとりあつかうのに適した対象と適さない対象とを見さだめる必要があると思いついたのです。
『人間知性論』読者への手紙 (熊野 Kindle 位置No.607-613)
イギリス経験論
ロックは「生得観念」を批判した。
そして観念は感覚や内省の経験を通じて獲得されるものであるといった。
ロックは腕の良い産科の医者でもあった。ロックの経験論はおそらく胎児から幼児にいたる発生論的、生理学的見地と結びついている。
ロックは経験の源泉の一つに「内省」を認め、「抽象観念」の存在も認めている。
ロックによれば言語とは「内的な観念の外的な符号」である。
もし個々の観念がすべて名前を持つことなれば無数の名前が必要になるため、そのようなことを避けるためにその一般的な代表者として「抽象観念」がある。
モリヌークス問題
「生まれつき目の見えない人間でも触覚により立方体と球体の区別ができるが、その人が開眼手術によって視力を得たら、その二つを見分けることができるだろうか」という設問に対し、ロックは見分けられないと答えた。「手を不均等な仕方で圧迫する立方体の尖角が、目には立方体の尖った角として現れるという経験を経ていないから」というのがその理由である。
第一性質と第二性質
ロックにおいては思考の対象はすべて「観念」と呼ばれる。
ロックは観念をそれ以上分割できない単純観念と、複数の単純観念からなる複合観念に分類した。
さらに複合観念は様相、実体、関係の観念に区分される。
『人間知性論』ではこのように分類されたあと、それぞれの観念について検討していくなかで、第一性質、第二性質という考察が展開される。
ロックのいう性質とは人間が自身の心に観念を生み出す能力のことである。
第一性質は固性、形状、延長、運動、数など、物体と切り離せない性質である。
第二性質は色、音、味などで、これらは一次性質に依存しており物体自体に備わる性質ではない。
したがって二次性質がわたしたちの心に生み出す観念は物体に類似しない。
タブラ・ラサ(白板)
ロックは人間の心をWhite paper、タブラ・ラサ(白板)にたとえた。 人は白紙状態で生まれ、経験したことをこの白紙に刻み込んでいく。
『統治二論』と所有権
「人は皆、自分の一身については所有権を有している」したがって「人の身体の労働、手のはたらきは、まさにその人のものであり」、労働が加えられた対象がその人の「所有物」となるのである。(『統治二論』第2巻第5章) 『統治二論』は2つの論文で構成される。第一論文ではフィルマーの王権神授説が論駁され、第二論文では主に政治権力について自説が展開される。 ロックがいうには、政治権力とは「生命・自由・財産」(=これらをロックは所有権と呼んだ)を調整、保全することを目的とした権力である。そして国家とはこのような政治権力を独占的に行使する存在である。
ところで人々がそのような政治権力に服するのはなぜだろうか。
人間は各自、元々自由で独立した存在であるため、政治権力への服従は自発的な同意でしかあり得ない。
人々は政治権力が各自の所有権を保護してくれるという期待をもち、それを条件に政治権力への服従に同意するのである。
この同意によって一つの政治的社会に統合される。
また政治権力は立法部によって行使される。立法部が国民の所有権を侵害した場合は、服従の義務から消滅し、人々は立法部に抵抗する権利(抵抗権)を持つ。そうなれば立法部は政治権力を失い、人々は所有権の保障に適していると思われる新たな立法部を設立することになる。
参考文献:
・熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』
・よくわかる哲学・思想(ミネルヴァ書房)