西洋哲学史:ギリシャ哲学(プラトン哲学)
イデア論
ソクラテスは善、正義、勇気、美などの定義を求めて対話を行っていた。 定義を求める以上、善それ自体、正義それ自体、勇気それ自体、美それ自体の存在を前提としなければ成り立たない。
善のイデア、正義のイデア…以外にも猫のイデア、椅子のイデア、等しさのイデアなどあらゆる存在や概念について、その自体的存在、イデアがある。
これはプラトンが一方で恒常的に存在すると言えるものは何もないというヘラクレイトスの万物流転の思想を認め、他方で存在は永遠に同一であり、生成も消滅も運動もしないというパルメニデスの存在思想を承認しているといえる。 万物流転、つまり美しい花もやがて色褪せ、人間も永遠に若くはいられない。
しかしAは長身で Bは太っていてCは赤毛であったとして、それぞれ異なっているにもかかわらずAもBもCも「人間」として認識できる。
人間という概念にA、B、C全ての人を含む人間一般を包括している。
一つ一つの個物の上にはその類であるそれぞれのイデアが永遠不変の範型として存在している。
具体的な個物、個々の人間、花、椅子から離れたところに不変なイデアがある。
イデアはこのように離れたところにある普遍的、離在的存在者である。
プラトンは諸イデアに位階を考えたようで、あらゆるイデアの上に「善のイデア」を置いた。 彼は『国家』第六巻の中で「知られたものに真理を与え、知るものに知る力を与えるものを善のイデアであるといいたまえ」と語っている。
しかし真理と知識の最高の原理である善のイデアが何であるかをプラトンは積極的に規定しなかった。
洞窟の比喩
プラトンは人間の置かれた状況を洞窟の比喩によって語っている。(『国家』第七巻) 人間とは洞窟の奥に壁に向かって縛られて座っている囚人に等しい。背後にはローソクが立てられており、囚人たちの影を壁に映し出している。
鎖で縛られているため振り返る事ができず、人間は自分たちの影を見てそれを真実だと思い込んでいる。
そしてこの鎖を解いて洞窟の外に出ていくものが哲学者であるという。
外に出たものは、太陽に目が眩んで最初は何も見分けることができないが、徐々に明るさに慣れてきて周囲を見分けられるようになる。その結果、全てを認識し、それまでの自分の置かれていた状況を理解するにいたる。
すべてを認識した哲学者は今度は洞窟の仲間に真実を伝えようとするが、洞窟の中の人々は彼のいうことを信じない。
なぜなら、外の明るさに慣れた目は洞窟の中の暗さのために内部を見分ける事ができず、彼の振る舞いは不遜になってしまうからである。
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洞窟の比喩 ヤン・サーンレダム 1604年 アルベルティーナ,ウィーン
弁証法(ディアレクティケー)
ソクラテスの対話術においてはロゴス(論)が二つにに分割され、二つに割れたロゴスの対立と競合によって十全な概念規定(定義)に到達することが目指された。
この対話術を厳密化し学的方法まで高めたのが弁証法であり、善のイデアにまで高めるための手段とした。
弁証法には、個々の概念を総合することによって普遍的な概念を目指す総合(上昇の道)と一定の概念を分割してそれ以上分割しえない最下の概念にいたる分割(下降の道)の二つの方向がある。
「哲学者が王となるか、王たるものが神の配剤によって哲学を学ぶにいたるかしない限り、国家の悲惨は救われない(『第七書簡』326A-B )
四基徳
プラトンは国家を人間との類比において考察した。(『国家』第四巻)
人間は頭によって代表される理性、胸によって代表される気概、下腹部によって代表される欲望の3つの部分からできている。
同様に国家も統治階級と軍人階級と農・工・商人階級の3つに分けられるという。
統治階級の徳は知恵または思慮、軍人階級の徳は勇気、農・工・商人階級の徳は節制であり、それぞれの階級が自己の徳を最もよく発揮することによってのみ国家の安泰は保たれるとプラトンは考えた。
したがって各階級がそれぞれの徳を最大限発揮して全体がうまく調和するところに正義があるとした。
この知恵、勇気、節制、正義の四つをプラトンの四基徳という。 国家論
プラトンの構想する正義の国家とは知恵や気力、体力に優れ、善の形相を見たごく少数の統治階級によって統治される寡頭政体であり、そこには一種のエリート主義がある。
各階級はそれぞれの職場において自己の本分を果たさなければならず、それぞれの領分を超えることは悪と考えた。
このように各部分が全体という理念のもとに有機的に統一された国家がプラトンにとっての理想国家であった。
彼の国家論は善それ自体や善の形相を目指して秩序づけられていることがポイントであって、それゆえにプラトンは婦人の共有や国家管理による集団見合い、不具に生まれついた子どもたちの遺棄といった破天荒なことを語りながらも、それを少しも怪しまなかった。
善それ自体に照らして秩序づけられている以上、すべては善であるということになるのだ。
後期思想
後期のプラトン思想は前期と中期と異なり、批判的、吟味的、分析的であり、イデア論の再吟味という性格を持つ。
またその方法も一新され、分割の弁証法が前・中期の総合の弁証法に代わって新たな研究の手段として前面に押し出される。
また後期のプラトンは前・中期のイデアといった超越的原理によって一切を説明するのではなく、一と多ないしは不定の二、あるいは限定と無限定といった内在的原理によって説明する傾向を示している。
『ピレポス』ではこういった見地からあらためて「善とは何か」が問われ、『法律』において構想される世界も『国家』において説かれたような極端な理想国家ではなく、より実際に即した現実的な国家や法だった。