西洋哲学史:ギリシャ哲学(ストア派)
【創始者】
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ゼノン 前335年-前263年
キプロス島のキティオン出身のフェニキア人(エレアのゼノンとは別人)
キュコニス派のクラテスに哲学を学ぶ。キュコニス主義的徳を徹底し体系化したものがストア哲学である。 ストアの呼び名はゼノンがアテナイの彩色柱廊(絵画柱廊 ストア・ポイキア)で教えたことからきている。
【時代区分】
ストア派はヘレニズム期のギリシャ、ローマ時代に長く続いた学派であったため3つの時代区分に分けて取り扱われる。 古ストア:前3世紀 ゼノン⇨クレアンテス⇨クリュシッポス 中ストア:前2世紀 パナイティオス、ポセイドニオス
【学説】
ストア派は哲学を3つの部門に区分した。
①論理的部門 ②自然的部門 ③倫理的部門
これは後の西洋哲学において伝統となった哲学の三区分法である。
ストア派はこれら3つの部門はそれぞれ独立させても意味はなく、各部門は全体との有機的関連のもとにおかれなければならないとした。
①論理的部門
論理的部門は以下に述べる基準論と弁証論の他に文法、詩学、音楽論などが含まれる弁術論の3つにわかれている。
(時代や人によって分け方は異なる)
・基準論
模写説。今日でいう認識論に近い。
〜表象について〜
魂は生まれた時にはまだ何も書かれていない板に等しいものである。
ゼノン、クレアンテスは表象を事物による「魂の刻印」であるといい、あとを継いだクリュシッポスはこの刻印という考えを否定し「魂の変容」とした。
クリュシッポスは声が空気の変容であるように、表象を魂の変容であるとしなければ、魂は多くの表象を受容れられないと考えた。もし魂への刻印だとすると多くの刻印によって各形象の判別がつかなくなるからである。
表象は存在を基礎としそれに対応している。そのため想像や妄想とは区別される。
ストアの学徒はある表象が存在に対応する真の表象であるか、それとも存在を基礎としない想像や妄想、あるいは存在を基礎としていてもそれと一致しない偽なる表象であるかどのように判別したのだろうか。
彼らはさまざまな表象のうち、われわれが同意を与えざるを得ないような”表象と存在が一致したもの”を真なる表象であると考えた。そしてそれはそのものが持つ明証性によって直覚的に把握される。
このような真の表象を「把握的表象」と呼び、同意を与えることを差し控える、または拒否せざるをえない表象を「非把握的表象」と呼んだ。
ストア派にあっては表象の真偽は表象そのものから直覚的に知られるのであって、それ以外に何か根拠があるわけではない。
そして知識とは「確固としていて議論によって覆されることのない把握」であり、そのような揺るぎない把握的表象である知識は賢者のみが所有するとした。
・弁証論
今日の形式論理学に近い。
言葉は以下の二つに分けられる。
表示するもの:意味内容を伝達する媒介としての言葉(音声や分節化された語り)
表示されるもの:言葉によって表現される意味内容。ストア派では「レクトン」と呼んだ。 レクトンは「完備している(=命題、推論など文の形をとる。)」と「不完備(=名辞・概念)」に分けられる。
レクトン
〈 範疇 〉
不完備なレクトン、つまり概念において最高位にあるものは範疇(カテゴリア)である。
ストア派の4つのカテゴリア
基体(実体)
質(性質)
状態(一定の性質を有する事物のあり方)
関係的状態(他の事物との関係においてあるあり方)
これら全ての上に「或るもの」を置いた。
ストア派の範疇論は「或るもの」が次第に限定されて、具体的なあり方を取っていく段階を示すことを特徴とする。
〈 命題 〉
完備したレクトンの最も基本的なものは命題である。
命題はアリストテレスにおいては「人間は二足の動物である」といった主語ー述語の抽象的な包摂的関係が問題とされていた。
ストアではそういった概念の抽象的な包摂関係ではなく、実際に起こっている客観的事象の言表として捉えられていた。
これは存在するのは物体的な個物のみであり、抽象的普遍は空虚な言葉でしかないとする唯物論的な存在思想に依っている。
したがってストアの論理学は唯名論の立場に立つ命題論理学であった。
命題には単純と複合があり、複合命題は単純命題の結合によって得られる命題である。
複合命題は結合の仕方によって6つに区別される。
結合(仮言)命題 「もし・・」
帰結命題 「・・・であるから」
対等命題 「かつ」
選言命題 「あるいは」
根拠命題 「・・・であるゆえに」
比較命題 「よりも」
〈 推論 〉
二つの前提命題から第三の命題が導き出されるものが推論である。
推論には非決定的か決定的かに分かれる。
非決定的推論:「昼ならば、明るい。さて昼である。故にディオンは散歩する」
二つの前提と結論との間に何らの規定関係もないような推論。
決定的推論:「昼であるか、夜であるかである。さて昼ではない。故に夜である。」
二つの前提によって結論が一義的に決定される推論。
アリストテレスにおける推論は例えば「全ての人間は死す。ソクラテスは人間である。故にソクラテスは死す。」のように事実とは切り離された概念の抽象的な包摂関係を問題としていた。 ストアにおいては命題と同じように、事象の模写としてしか言葉は意味を持たないとする唯名論的な言語観から、 「この女は乳を持っている。それは彼女が子供を産んだからである。」というように実際に生起している事象の時間的継起または伴立として捉えられている。
クリュシッポスは決定的推論の中には証明を必要としない推論「無証明的証明」を挙げている。
また、ストアの学徒はアリストテレスにおいて十分考察されていなかった仮言的推論や選言的推論を研究し、この方面において論理学研究を発展させた功績がある。
②自然部門
ストアの自然哲学は唯物論と汎神論の統合という性格を持っている。
存在するものは全て物体であって、非物体的な実在は存在しない。魂や生命や精神も全て物体であり、それらは物体の精妙な流れ、気息であるという。したがってイデアや形相といった非物体的な実体を認めない。 存在するのは物体的な個物とその総体としての世界のみである。
しかし時間と場所と空虚とレクトンが非物体的であることは認めていたようである。
〈 ストア派の世界観 〉
ストア派はヘラクレイトスに倣って、全体である世界は生きた火であり、この火が「造化の火」として万物を「諸存在の因果連鎖」として形成していくという世界観を持っていた。 自然は生きたそれ自体で働く性状であり、また地上の一切の事物を生む原理であり、「道にしたがって生成に向かって歩む造化の火」である。
個々の自然物は生ける根源火から因果の連鎖を経て生み出されるが、これは無限に進みゆくのではなく、一定の時間を経た後、世界大火によって焼き尽くされ、また新たに以前と同じ過程が再興されるという。
再び「ソクラテス」や「プラトン」が現れ、以前とまったく同じことが繰り返される。そしてこの再興は一度限りではなく何度も繰り返される。 根源火からの万物の生成と世界大火によるそれへの還元という円環の永劫回帰がストアの世界観だった。 ニーチェの永劫回帰思想はどこかにストアのこの思想があったのかもしれない。 〈 唯物論的汎神論 〉
ストアの学徒たちはこの根源火を偶発的、機械的とは考えず、それ自身が知性(ヌース)であり、理性(ロゴス)であり、世界の秩序と合目的性を種子的ロゴスとして内包する神であると考えた。それはまたゼウスとも呼ばれている。
物体の総体としての世界、万物を生成する生きた自然、造化の火、ロゴス、神、ゼウスはストア派においてはすべて同じものに対して異なった観点から与えられた呼称である。
したがって自然即ち神、神即ち自然とする汎神論であり、しかも神そのものも物体として捉えるため唯物論的汎神論ということができる。 〈 世界市民主義 〉
ストアでは世界は一つの「大きな生き物」と考え、全てのものが有機的に統一され美しい全体を作り出している。
物体という共通の観点から全ては同一の基盤を持っており、連続している。
海面に落とされた1滴の葡萄酒も海全体に広がり、やがて宇宙全体に広がるであろうという。
諸物の中に見られる広範な共感をストア学徒たちは協和や協調という表現で語っている。
この共感の理論は魂が表象の真実性を認知する把握の理論に基づいている。
ポリスやギリシャ人といった民族的差異、社会的身分を超えて世界市民として捉える世界市民主義がストアの基調となっている。
③倫理部門
このようにストアにあっては自然はそれ自体が理性(ロゴス)であった。
したがって自然の理法(ロゴス)にしたがうということが人生の目的であるとストア学徒たちは考えた。
クレアンテスは人生の目的を「自然と一致して生きること」と定義した。
〈 徳 〉
そのため自然(ロゴス)にしたがうというこの一点だけが絶対的に要求される「徳」であり「善」であって、それから逸脱することは「不徳」であり、その点にのみ「悪」が存在する。
自然にしたがっているものが「善」であり、それから逸脱するものが「悪」であり、それ以外の全ては「善悪どちらでもないもの」である。
そのため健康や病気、美・醜、快・苦、富・貧などの相対的なものはどうでもよいものであり顧慮に値しないものであって、生死さえもそうであるとされた。
自然に一致して生きる、つまり人間は理性的に生きねばならない。
しかし人間には衝動があり、衝動が適度である場合はそれはまだ自然的であるが、過度である場合には情念(パトス)となる。 パトスには苦悩、恐怖、欲望、快楽があり、これらの情念(パトス)を徹底的に排除し、強い意思によって行動を厳格に自然のロゴスにしたがわせることを目指すものがストア派の実践論だった。
ここからストア派の厳格な道徳思想が生み出される。
いかなる情念(パトス)によっても影響されることのない魂の不動の状態、アパテイアを人間的態度の理想とした。
魂がこのようなアパテイアの状態にあり、自然のロゴスと一致して微動だにしない人がストア学徒のいう賢者だった。
情念から解放され、魂の支配的部分(ト・ヘゲモニコン)によって統治される理性的な人生が「穏やかな人生」であり、これがすなわち「幸福」であると彼らは考えた。
したがって幸福は「徳」の結果でありそれ以上の意味はない。
徳は幸福を結果するか否かにかかわりなく、それ自体で求められなければならない。
徳はそれ自体が目的であって、他の何ものも前提としないからである。
よって徳は他の何ものも必要とせず、自足的である。
人間の目指すべきはあくまで「徳」であって幸福ではない。この点でエピクロス派との大きな違いであり、ストア派が「厳格主義」と呼ばれる所以である。
〈 カテーコンタ 〉
このような自然のロゴスと完全に一致した賢者の生活は、実際には実現不可能な生活であり、人間的というより神的であることはストア学徒たちがよく自覚していた。
そのためストア学徒たちは一方で賢者によってのみ実現される「完全に正しい行為」を理想に掲げながらも、他方で完璧ではないものの、人間がその都度要請される道徳的規範に適った行為を「ふさわしい行為」として承認した。
この人間がそれぞれの状況において他のものに優先して選びとられるべき当為に適った行為を「カテーコンタ」という。 このカテーコンタはキケロによって「義務」と訳された。 これに対し情念を排し、自然と完全に一致して生きる賢者のみが所有しうる完全な正しさが「カトルトーマタ」である。 これはストアの厳格な思想の緩和であるといえるが、事実上不可能な賢者の生活が机上の空論になることから救い、このカテーコンタ理論によってストア派は実践可能な実践論を獲得することができた。
ストアをローマ人に繋いだ中ストア期の哲学者であるパナイティオスがストアの厳格な徳の概念をこういった実践的な方向に展開していったと推定されている。
また、パナイティオスはキケロが『義務について』を著すにあたって下敷きにした哲学者でもある。