自分独自の恣欲
ちなみに、ポーの言う「天邪鬼」という性向については次のようなこと。
>私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。
第一部7章で、ドストエフスキーは語り手に、明確に啓蒙主義を否定する言葉を語らせている。 人間が汚らわしい行為をするのは、ただただ自分の真の利益を知らないからだなどと、だれが最初にふれまわりだしたのだ? もし人間を啓蒙して、正しい真の利益に目を開いてやれば、汚らわしい行為など即座にやめて、善良で高潔な存在になるにちがいない。なぜなら、啓蒙されて自分の真の利益を自覚したものは、かならずや善のなかに自分の利益を見出すだろうし、また人間だれしも、みすみす自分の利益に反する行為をするはずもないから、当然の帰結として、いわば必然的に善を行うようになる、だと? ああ、子供だましはよしてくれ! 無邪気な赤ん坊もいいところだ!
そして、人間は自分の利益は承知の上で、それを差し置いて、あえて危険を伴う困難な道を強情、勝手気ままに切り開いてきたのではないかと語る。
また、啓蒙主義者は幸福、富、自由、平穏といった類いの貸借表を作り、人間の利益とやらを計量しようとするが、語り手によれば、彼らは一つのとある利益だけは不思議なことに考慮に入れていない。
諸君、問題はこの点なのだ。実際問題として、ほとんどすべての人にとって、どんなすばらしい利益よりもさらに貴重な何かが存在するのではないだろうか。別の言葉で(つまり、論理に反しないように)言えば、いまも言ったように、つねに見落されているとはいえ、何とくらべてもいちばん有利な利益なるものが存在し、それは他のどんな利益にもまして、貴重な、有利なものであり、そのためには人間、必要とあれば、あらゆる法則に楯つくことも辞さない、つまり、理性にも、名誉にも、平和にも、幸福にも──一口でいえば、これらの美にして有益なるものすべてに逆らっても、なおかつ自分にとってもっとも貴重な、この本源的な、有利な利益を手に入れようとするのではないだろうか。
大事なことは、この利益の注目すべき点が、これまでのあらゆる分類表をぶちこわし、人類の幸福のために人類愛の唱道者たちが作りあげた全システムをつねに叩きこわすものであることだ。一言でいえば、それはあらゆるものの邪魔をしてはばからないのだ。
そして、この自分の利益や理性にも反する内的衝動は文明が発展しても変わらないのだと説かれている。
この衝動こそが「自分独自の恣欲」と語られているもの。
人間に必要なのは──ただひとつ、自分独自の恣欲である。たとえこの独自性がいかに高価につこうと、どんな結果をもたらそうと知ったことではない。だいたいが恣欲なんて、そんなわけのわからない代物なのだ…… 人間は理性や利益の命ずるままにではなく、まさにこの「自分独自の恣欲」のために行動することがある。それは時に狂気にも近い、人類の幸福や平和を破壊する衝動であることもある。
その場合、ポーの小説で語られていた「天邪鬼」という性質になる。
欲するということなら、人間、自分自身の利益に反してだってできるし、ときには、絶対にそうなるしかないことだってある(ここのところは、正真正銘、ぼくの考えだ)。自分自身の自由気ままな恣欲、どんなに無茶なものであれ、自分自身の気まぐれ、ときには狂気と選ぶところないまでかきたてられる自分自身の空想──これこそ例の見落されているもっとも有利な利益であり、これだけはいかなる分類にもあてはまらず、これひとつのために、全システム、全理論がたえず微塵に崩壊する危険にさらされているのだ。
この「自分独自の恣欲」は大体、実にくだらない原因から起こっている。例えば、「退屈だったから」とか。
たとえば、ぼくなどは、もし未来の合理主義一点張りの世のなかに、突如として次のような紳士がひょっくり出現したとしても、いっこうに驚かないつもりである。その紳士は顔つきからして恩知らずで、いや、というより、冷笑型の反進歩派的容貌としておいたほうがいい、両手を腰にあててふんぞり返り、ぼくら一同に向っていうわけだ。〈どうです、諸君、この理性万能の世界を、ひと思いに蹴とばして、粉微塵にしてしまったら。なに、それも目的があってのことじゃない。とにかくこの対数表とやらをおっぽりだして、もう一度、ぼくらのおろかな意志どおりの生き方をしてみたいんですよ!〉
さらに、無知蒙昧な人々に真の利益を説けば人類はたちまち善良で高潔な存在になるという啓蒙主義者の理論は、「人間は文明の発達によって温和になり、残虐さを減じて戦争もしなくなるようになる」と説くのに等しいとも語られている。 いったい文明がわれわれのどこを温和にしてくれるというのだ? 文明が人間のうちに作りあげてくれるのは、感覚の多面性だけであり……それ以外には何もありゃしない。ところで、この多面性が発達する結果は、あげく人間が流血のなかに快楽を発見するところまで行きつくかもしれない。いや、現にそういうこともあった。諸君は気づいておられるかどうかしらないが、もっとも洗練された流血鬼というのは、ほとんどの場合、きわめて高い文化の恩恵に浴した人たちで、彼らにくらべればアッチラとかスチェンカ・ラージンなど、束になってかかっても足もとにもおよばないくらいなのだ。 第一部第8章では、この「自分独自の恣欲」は人間的な衝動であると語られている。実際、理性だけで自分の利益だけを求めて合理的に行動する人間、例えば古典的な経済学が想定する合理的経済人のような人間は人間的だろうか? それは本書の言葉で、まるでオルゴールのピンのようなものではないか。 ところで、諸君、理性はたしかにけっこうなものにちがいない、それに異論はない。だが、理性はあくまで理性にすぎず、たんに人間の理性的判断力を満足させるにすぎない。ところが恣欲のほうは、全生命の、つまり、上は理性から下はかゆいところをかく行為までひっくるめた、人間の全生活の発現なのだ。なるほど、このようにして発現したぼくらの生は、往々にしてくだらないものになりがちだけれど、やはりそれは生であり、平方根を求めるだけの作業とはちがうのだ。 こうして語り手は、以下のように人間の定義を考察している。 ぼくは、人間というやつのいちばんぴったりした定義は、二本足の恩知らずな動物──これだとさえ考えている。しかし、これでもまだ全部を言いつくしたことにはならない。これもまだ人間のいちばん大きな欠点ではない。人間の最大の欠点──それは常住不断の不徳義、人類史の大洪水時代にはじまって、シュレズヴィヒ・ホルシュタイン問題にいたるまで変ることなくつづいている不徳義である。不徳義は、当然また、無分別でもある。無分別が不徳義からこそ生ずることは、とうの昔から周知の事実だ。 また第一部第8章では、次のようにも語られていて興味深い。
ひとつこうした人間にあらゆる地上の幸福を浴びせかけ、幸福のなかに頭からすっぽり沈めてしまって、ちょうど水面と同じに、ちっぽけな泡だけがわずかに幸福の表面に浮びあがるというようにしてみたまえ、また人間に十二分の経済的満足を与えて、眠ることと、はっか入りの蜜菓子を食べることと、世界史が断絶しないよう気をくばること以外には、文字どおり、何もすることがないようにしてみたまえ。それでもなおかつ人間というやつは、ただもう恩知らずの気持から、中傷根性から、汚らわしいことをしでかすものなのだ。蜜菓子を棒にふる危険を冒してまで、わざわざ身のためにならぬたわごとを、およそ非経済的なナンセンスを求めるわけで、それもただただ、そうしたけっこうずくめの合理主義に、破滅的な幻想の要素を混じようためだけなのである。