縄文土器と岡本太郎
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深鉢形土器(火焔型土器) 縄文中期 新潟県十日町市笹山遺跡出土 十日町市博物館蔵 国宝 Wikipedia「縄文土器」より
縄文土器が注目され、日本美術史に組み込まれる流れ
明治時代の西洋の学問が日本に移植された際、お雇外国人であったエドワード・モースは大塚貝塚を発見し、日本の「先史考古学」における先駆的な役割を果たした。「縄文土器」 という名称は土器の表面に撚糸状の縄文様があることから名づけられた。 「原始美術」 は、もともと民族学、美術史学の中から生まれた概念である。 20世紀初頭パブロ・ピカソらフランスのキュビズムの画家たちがアフリカの民族美術を積極的に評価し、いわゆる「未開美術」を含んだ超歴史的な概念として日本に伝わった。 明治末年から大正にかけて、考古学において縄文土器の形態と文様の研究が進展し、縄文時代が日本美術史に組み込まれる下地が整いつつあった。 第二次世界大戦の後、1950年代初頭になると先史時代の造形に対する美術としての評価が高まっていった。それをいち早く提唱した人物の一人が、パリ大学で民俗学を学んだ洋画家の岡本太郎である。彼は「四次元との対話ーー縄文土器論」の中で、縄文土器を見て衝撃を受けたことを記し、その芸術性を賞賛した。これは縄文の造形の魅力を現代画家の目で再発見した画期的な記事として注目された。 やがて、美術系の書籍に縄文・弥生時代の造形が掲載されるようになり、先史の造形が日本美術史の中に位置づけられることになった。
縄文土器の中では、縄文中期の「火焔型土器」(上記画像)が最も有名である。後期になるにつれて、呪術的な紋様を残しつつもシンプルな造形へと変化していく。
縄文土器と岡本太郎〜なぜ岡本太郎は太陽の塔を建てたのか
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「太陽の塔」-Wikipediaより
岡本太郎は今も広く読み継がれている名著『自分の中に毒を持て』の中で、以下のように語っている。
人間社会には原始時代から社会構成の重要な要素として「呪術」があった。超越者との交流、それは社会生活の根源であり、政治、経済はそれによって支えられていた。呪術は目的的のように見えていながら、人間の非合理的なモメントにこたえ、逆にいのちの無目的的な昂揚を解き放つ力を持っていた。
ところが現代社会では、呪術の目的的な役割だけが科学技術によって受けつがれ、拡大されている。もう一つの、混沌と直結し、超越と対話する、人間存在の根源の神秘の力に通じる面は、無価値のように顧みられない。
(中略)
芸術は呪術である。というのがぼくの前からの信念だ。その呪力は無償のコミュニケーションとして放射される。無償でなければ呪力を持たないのだ。
造形は明らかにコミュニケーション・メディアである。しかし、コミュニケーションを拒否するモメントを持っているという、この両面を、今こそはっきりうち出す必要がある。
ほんとうの芸術の呪力は、無目的でありながら人間の全体性、生命の絶対感を回復する強烈な目的をもち、ひろく他に伝える。無目的的だからこそ。
(中略)
ぼくはエキスポ70にさいして、中心の広場に「太陽の塔」をつくった。およそ気どった近代主義ではないし、また日本調とよばれる伝統主義のパターンとも無縁である。逆にそれらを告発する気配を負って、高々とそびえ立たせた。孤独であると同時に、ある時点でのぎりぎりの絶対感を打ち出したつもりだ。
それは皮相な、いわゆるコミュニケーションをけとばした姿勢、そのオリジナリティにこそ、一般を強烈にひきつける呪力があったのだ。
岡本太郎『自分の中に毒を持て』
1970年の大阪万博の際に「太陽の塔」が建てられたが、万博のテーマは「進歩と調和」だった。しかし、太陽の塔の紋様と縄文土器(縄文中期の火焔型土器)の紋様はどこか似ていないだろうか。また、太陽の塔の顔部分、これのモデルは縄文時代の土偶である(下記参照)。これは彼の対極主義にも表れているように、彼は「進歩と調和」がテーマの大阪万博で、科学技術と資本主義一辺倒の豊かさを否定すべく、呪術的な縄文土器を想起させる太陽の塔を建てたのだ。太陽の塔は、このような時代だからこそ縄文を思い出すべきだ、という強いメッセージ性を放っている。 https://i.gyazo.com/e2a8f63793229f1492078596be4fe257.jpg
下記参考記事
『自分の中に毒を持て』でもこのように語っている。
確かに科学の発達や、巨大化していく生産など、未来をばら色に描き出した夢、プラスと思ったことが逆に裏目に出て、人類滅亡の方向に加速度をつけていることは事実のようだ。環境破壊、人口問題、さし迫ってくる問題で解決の見込みのついているものは一つもない。
近代合理主義を誇り、進歩などと得意になって突っ走った馬鹿馬鹿しさ、今になって、不吉なゴールを予感して悲鳴をあげている。人間はまことに矛盾した生きものだ。ー同書
岡本太郎の対極主義も太陽の塔も、進歩していくにつれて滅亡へと歩みを進める人間という矛盾を表現したもの、だという解釈も個人的にはできるのではないかと思っている。