国語からやり直す
を読んでいこう。だれでもコメントどうぞ〜
三木清はパスカルの研究をしていたらしい→フランス語を読むことができたのだろう
ただし、その下のところで、何についての「省察」なのかが補足されている。「神の存在、及び人間の靈魂と肉體との區別を論證する、第一哲學についての」と。
そうですね。著作権が切れてるものは旧字の翻訳しかないのかもしれない久住哲.icon 著作権切れの期限を見てみようイタロー.icon
三木さんは1945年に亡くなってる。80年前くらいだ。久住哲.icon
少なくとも1945年に亡くなった人は旧字を使っているイタロー.icon
どこかのタイミングで50年→70年に変わったんじゃなかったっけ久住哲.icon
たしかTPPに日本が加入?してからだった気がするイタロー.icon 「2018年12月30日に施行された著作権法改正によって、50年から70年に延長され」たらしい久住哲.icon
1967年没の場合までは、2024年現在著作権が切れている。1968年没の著作権は2039年から切れるイタロー.icon
大まかに言って、第一哲学についての省察であるということ。この第一哲学は、2つのことを論証しているものだという。すなわち、神の存在と、人間の霊魂と肉体との区別との2つだ。
省察(せいさつ)とは、「自分のことをかえりみて考えめぐらすこと」らしい。ここには自明のことを省みる、というニュアンスがありそう。ということは、第一哲学は「自明」または「誰か(たとえば?アリストテレス?アクィナス?)が一旦論証して定説がある」ことがらかもしれない。 論証とは、「ある判断が真であることを妥当な論拠を挙げて推論すること」らしいイタロー.icon
つまり、『省察』では、一つには「神が存在する」ことが真であることは妥当であると推論する……のかな(予想)
もう一つ、人間の霊魂と肉体を区別する真なる方法を推論する……のかな(予想)
ということは、〔これは物語や詩ではない/読んでいく上で論理が通っているかをみるのが大事〕かもしれない
たしかアリストテレスが第一哲学みたいなことを言っていたような気がする。
検索したらその通りヒットした
なお、ここでの第一哲学が、アリストテレスの言うところの第一哲学であるか否かを判別するためには、デカルト(当該テクストの著者)がアリストテレスについて知っている必要がある。あるいは、アリストテレスの哲学を基礎に置いた学問を知っている必要がある。
「デカルトとアリストテレス」
ただ、この知識が無くても、第一哲学がまず「神の存在」を論証するものだと言われていることによって、ここでの第一哲学がアリストテレスのそれを指すという判断は励まされる。
たしか、デカルトはスコラ哲学のことを知っていた。スコラ哲学は、アリストテレスを下敷きにしていた気がする。 「デカルトとスコラ哲学」
検索してみました。
12世紀頃にイスラムから西欧にアリストテレス哲学が逆輸入された。トマス・アクィナスがアリストテレスの哲学と神学を上手い具合に合わせた。 「デカルトとトマス・アクィナス」
とりあえずここまで。
# 誰に宛てられたテクストか
このテクストは「聖なるパリ神學部のいとも明識にしていとも高名なる學部長並びに博士諸賢に」宛てられている。すなわち学者向けの本として書かれている。
「パリ神学部」とあるが、これはパリ大学の神学部って意味なのだろうか?
なお、神学と読むだけで、キリスト教についての学問だと分かる。(キリスト教という言葉はまだ出てきていないのに。)これは知識のおかげ。
なぜ、神学部に(第一)哲学についてのテクストを送ったんだろう。「文学部哲学科宛て」なら理解できるが。当時の大学の、学問の、仕組みや体系が関係ありそう
Collège de Sorbonne(旧パリ大学神学校)か?
どういうレベルの大学で、どういう思潮があったのだろう?
デカルトとソルボンヌ大学の関係は?
当時は、大学に宛てて本を書くということが一般的だったのだろうか?
例えば、同僚に向けてとかいう意味なら理解しやすい。だが、デカルトがソルボンヌ大学に所属していない場合には、どうしてソルボンヌ大学の学者に?という疑問が浮かぶ。
というか、現代みたいに出版社があって発売日に本が書店に並ぶって感じじゃなかったんだろうけど、じゃあ、当時の出版ってどんな感じだったんだろう?
不特定多数の読者に開かれたものというより、一部の人に限定的に配られたりだったのか?
もしも神学部の学者宛てのテクストだとしたら、ある程度高度な知識が前提とされているだろう。
# 本文へ
私をしてこの書物を諸賢に呈するに至らしめました理由は極めて正當なものでありますし、諸賢もまた、私の企ての動機を理解せられました場合、この書物を諸賢の保護のもとにおかれまするに極めて正當な理由を有せられるであらうと確信いたしますので、茲にこの書物を諸賢にいはば推薦いたしまするには、私がそのなかで追求しましたことを簡單に申し述べるにしくはないと考へる次第であります。 この後の文章で、デカルトは、このテクストを書き送った動機を述べようとしている。
デカルトはこの本を学者たちに送るのは正当なことなんだとアピールしようとしている。
デカルトのWikipediaによれば、デカルトが30代の頃にガリレイの地動説に対してローマの異端審問所が破棄を求めた事件が起こっている。それを受けて、デカルトは、『世界論』という著作の公刊を見送ったらしい。 そういえばこれはデカルト何歳のときのテクストか→1641年なので、1596年生まれのデカルトは45歳くらい
こういうことをするのは、当時の礼儀なのか、それともこのテクストの内容が(『世界論』のように)キリスト教の世界観に抵触する恐れがあると思ったからなのか。
デカルトの動機を理解した場合に読者(神学者だろう)は自分がこのテクストを送られるに相応しいと確信するだろうとのこと。
動機を理解してもらうために、テクストのなかで追求したことを述べるという方法を選んだようだ。どういうことか?
気になるのは、「保護のもとにおく」という記述。デカルトは自分の本をソルボンヌの学者に保護してもらおうとしている
これらから予想できること。
デカルトが言い立てるこのテクストの目的はソルボンヌの学者たちの(神学的な?)目的と一致している。
何を追求しているか?
私はつねに、神についてと靈魂についてと、この二つの問題は、神學によつてよりもむしろ哲學によつて論證せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ信ある者には、人間の靈魂の肉體と共に滅びざること、また神の存在し給ふことは、信仰によつて信ずることで十分でありますとはいへ、たしかに、信なき者には、先づ彼等にこの二つのことが自然的理性によつて證明せられるのでなければ、いかなる宗教も、また殆どいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思はれないからであります。
神についてと霊魂についてとという2つの問題は、定番の問題だと読み取れる。どのようにして? あと、霊魂とだけいって肉体といってないのは、霊魂のほうが重要だとされているからじゃないか、また、もし肉体が滅んでも、霊魂のほうは残る(滅びざる)ということは自明(説明がない)だ
まず、神についての問題にも霊魂についての問題にも、それ以前のテクストに全く説明が無いことから、そのことが読み取れる。この問題はテクストに突然現れている。
このことはかえって、このテクストの外、このテクストより前の時代からの論争を想起させる。 もっと前段階かもしれない。たとえば、哲学で神や霊魂を論証する是非とか
「学者」という宛てられた者と、神学的な論争史とは互いに結びついた概念である。
論争は、著者による類似性よりも強い類似性を、著者間にもたらすことがある。(『エジプト人モーセ』p37) 問いが、文脈を無視して突然提示されることは適切ではない。問題の提示の唐突さは、お互いが神学的な論争の文脈を知っていること……相手が知っていることを知っていること……を踏まえると、論争史においての定番さとして理解できる。(?)
問いが文脈を無視しているとは、神について話していた次の行で今日は何を食べるべきかと考え始めたりする→混乱する
「神」も「霊魂」もキリスト教的な言葉である。
「神学」と「哲学」の区別がある。
「信ある者」と「信なき者」という区別が述べられている。この区別には、「信仰によって信じる」と「自然的理性によって証明される(のを見る)」という区別が対応する。
「神学→信仰/哲学→自然的理性」を取り扱う
この区別はさっきたまたま読んだトマス・アクィナスについての解説文を思い出させる。そこでは、たしか、恩寵と理性が対立させられていた 神と霊魂の問題がいずれかの仕方で認められなければ、宗教も道徳上の徳も受け入れられないだろうと言われている。
この推論は不思議な気がする久住哲.icon
どういうところが不思議なんですか?(反語ではない)イタロー.icon
別に神や霊魂が証明されなくても、(宗教はともかくとして)道徳は受け入れられそうだと思うので。例えば、きちんと順番は守りましょうみたいな道徳は、神や霊魂とは関係がないから久住哲.icon
「殆どいかなる道徳上の徳」と言っているのが気になる。順番は守りましょうみたいな道徳をひっくるめているということは、ひっくるめられる根拠があるのかもしれないイタロー.icon
フィリッパ・フットの議論が思い出される(知識)。その議論は、カントの道徳論についての議論だが、フットはそこである論点を述べていた。それは、エチケットと道徳的命法との違いだ。「順番を守る」とかはエチケットの方に含まれ、道徳からは除外されるのか?久住哲.icon もし、とすると、この場合の「道徳」は何か論争的(それを巡って意見が割れるよう)なものなのかなイタロー.icon
「この世」は利で動く。ただしそれは「神を畏れず、また來世を期待しないならば」の話だ。すなわち、「神を畏れ、来世を期待するならば」……「利よりも正を好むものは少数」とはならないかもしれない。すなわち、正を好む者が多くなるかもしれない。
だから、「先づ彼等にこの二つのことが自然的理性によつて證明せられるのでなければ、いかなる宗教も、また殆どいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思はれない」。すなわち、神を畏れる・霊魂は不死=来世があるからこそ、「この世」的ではない彼岸的な発想(利よりも正を重視する考え方)で動く人間になる可能性が出てくるのだから、だから、神と霊魂の不死が重要。
なるほどイタロー.icon
久住哲.icon 霊魂の問題と、来世への期待とが、自分の中で結びついていませんでした。(その結びつきを知ってたはずだけど。)しかし、以下で「神を畏れず、また來世を期待しないならば」という並列が見られることから、神の存在→神を畏れるべしという結びつきと、霊魂の不死→来世(での裁き?かな)という結びつきがあるだろうと考えられる
哲学による証明は信なき者にも通じるという前提がある。これと対比させると、神学的なアプローチは信ある者に対しては有効だが、信なき者にはあまり有効でないと前提されていると推測できる。
そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳に一層大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また來世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少數であるでありませう。 もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教へられてゐるところでありますから、まつたく眞でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まつたく眞であります。まことに信仰は神の賜物でありまする故に、餘のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れ給ふその神はまた、神の存在し給ふことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得給ふからであります。とはいへ、これはしかし、信仰なき人々に對しましては、彼等はこれを循環論であると判斷いたすでありませうから、持ち出すことができませぬ。 どういう循環か。
循環論とは「証明すべき結論を前提として用いる論法」
神が、神の存在を信じるにいたるための「聖寵」を提供する。このとき、これから信じられるはずの対象(神)自体が、それ(神)を信じさせるためのものを与えるという構図になる。そうだとすると、これは循環だ久住哲.icon
神の存在(これから証明されるべきもの)は、聖書でそう教えられている(根拠)ので真だと分かる。ところで、聖書の正しさ(これから証明されるべきもの)は、神が授けた(根拠)ので真だと分かる。聖書が神を基礎づけ、神が聖書を基礎づける。これは循環だ久住哲.icon
聖寵の説を循環論であるとして退けるといったムーブを「信なき人」は行うだろう……という推測は、過去の論争の歴史に基づいたものだろうと予想久住哲.icon
そして實に私は、單に諸賢一同並びに他の神學者たちが神の存在は自然的理性によつて證明せられ得ると確信いたされるといふことのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりも更に容易であり、まつたくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるといふことに、氣づきました。これはすなはちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またその故をもつて彼等は宥すべからざるなり、蓋し彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神を更に容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、辯解する事を得ず、と言はれてをります。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顯はなり、といふ言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の處においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根據によつて、明白にし得るといふことが告げられてゐると思はれるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によつて神はこの世のものよりも更に容易に更に確實に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無關係なことではないと考へた次第であります。 神の認識は簡単だという説が、聖書を引きつつ、言われている。
ソロモンの知恵で言われていること
この世のものを賞づ(いいねと思う)なら、神のことも知るに決まってるのに、なんで知らないんだよ(非難)ということだろう久住哲.icon
すなわち、その直前の「まつたくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易である」と関係している
「宥すべからざるなり」は「咎むべき」の言い換えだろう
より低次の話(『本を読む本』でいうところの「初級読書」のレベルの話)として、それを言い換えと理解するためには、「宥す」を「ゆるす」と「咎む」を「とがむ」と読める国語的知識が必要になる。もちろん「とがむ」は「とがめる」という意味だということの知識・リテラシーも必要である。 「賞で得るほど知り得たり」とあることから、知るの先に賞でるがあると伺える。
物事を愛でるためにはまずその物事を知らないといけない。ただ知るだけ(例えば、そういうものがあるんだということだけ知るとか、名前だけ知ってるとか)ではなく、いわば深く知らなければ、賞づるには至らない……という前提がありそう久住哲.icon
「愛でられるほど知っているなら(精通しているなら)~」みたいな?イタロー.icon
ロマ書で言われていること
ロマ書からの引用は、その直前のソロモンの知恵からの引用を踏まえなければ理解不可能だと思う久住哲.icon そこでははじめは「彼等、辯解する事を得ず」としか引用されていない
その後、「神に就きて知られたる事柄は彼等において顯はなり」という文も引用される
「彼らは弁解(=言い訳)できないよ」だけでは理解できない。その後に続くはずの「だって……」を補わなければならない。その後には「だって……本当は知ってるはずだからね。というのも、神を知ることはこの世のものを知ることより簡単なことなんだから」というような話が続くだろう。これは想像だ。
その後でデカルトは、その簡単さ・シンプルさを「他の處においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根據によつて、明白にし得る」と言い換えているように思われる。すなわち、他所を見るなんて(難しいことを)しなくても、自分の精神だけで分かる。簡単でしょう?……と
この世のものを理解するにしても、神を理解するにしても、いずれにせよ精神を媒介する。ところで、神は精神のみで理解できる。ということは、この世のものを理解するよりもシンプルで単純……という理屈か。
定言命法やんと思った。すなわち、仮言命法は「もし〜ならば」という条件を介さなければ、ある行為の良さが命じられないが、定言命法はそういった条件を必要としない。仮言命法よりシンプル久住哲.icon ソロモンの知恵やロマ書で言われている「彼等」が誰であるかを、私たちは知ることができるか?
久住哲.iconは「信なき人々」だと思う。なぜそう思うことができるのだろう。
久住哲.iconは「ソロモンの知恵」や「ロマ書」の内容を知らない。テクストだということは上のテクストから分かる。というのも、「第13章」とか「第1章」などと言われているから。
「神」と「この世のもの」が対立させられてる。
「精神」が出てきた。
「精神そのものにおいて」「神について知られ得る一切のことがら」の「根拠」を求めることができる。
「精神」と「霊魂」は違うのかどうなのかイタロー.icon
ただ読む限りでは今のところ同じと思ってよさそうな気がする久住哲.icon
実はなんか使い分けのルールとかが当時あった、ということが判明したら、話が変わってくるが
なるほど。mensと見るとman(人)/men(男たち)、animaと見るとanimal(動物)を連想するイタロー.icon
このテクストで探求されること
「神」が「この世のもの」よりも容易に確実に認識される道(方法?)
「……私に無關係なことではないと考へた」
君だれ?……という流れになると期待するはずは無いので、著者(デカルト)はソルボンヌ大学の学者たちに何者であるか知られていたと考えられる。
また靈魂に關しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判斷いたしてをり、そして或る者は人間的な根據からは靈魂が肉體と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によつてのみその反對が理解せられるとすら敢へて申してをりますとはいへ、しかしレオ十世の下に開かれましたラテラン公會議は、第八會同におきまして、彼等を非とし、そしてキリスト教哲學者たちにかの人々の論據を破り、全力を擧げて眞理を證明するやうに命ずるのでありますから、私もまたこれを企てることを恐れなかつた次第であります。 「また」という接続詞により、話題が変わることが標示される。「霊魂に関しましては」とあることから、話題が霊魂へと切り替わったことが分かる。何から切り替わったのか?神が容易に明確に知られ得ることだろう。
「精神」は理解する力をもっている、「霊魂」は本性を解き明かすのが難しい(つまり本質がまだわかっていない)。「精神」を使って「霊魂」の性質を捉えようとしている?イタロー.icon
「多くの人々」と「或る者」
多くの人々「霊魂の本性は容易に究明されない」
或る者「人間的な根拠からは霊魂は肉体が滅びればまた滅びるといわざるをえないので、信仰によってのみその反対(肉体が滅んでも霊魂は滅びない)が理解される」とあえて言っている
信仰でそれが信じられるというのは良いことのように思われるが、ラテラン公会議はそれだけでは満足しなかった(人間的・理性的・哲学的な方面でも説得されなければならないと考えた)ということだろうか久住哲.icon 「人間的な根拠」と「信仰」
人間的な根拠から霊魂が肉体と同時に滅びると結論される
科学が関わっていそうイタロー.icon
デカルトのWikipediaを見たときにガッサンディとかの名前を見た。デカルトはこのテクストを発表する前に、彼に読んでもらっているらしい。ガッサンディは当時の物理学者(科学者)久住哲.icon 「人間的」とは久住哲.icon
ラテラン公会議?
)。キリスト教の知識がないと、区切り方もわからない。「越天楽今様」をどこで区切るか(どう発音するか)も知らないとわからないイタロー.icon
キリスト教の文脈での会議がどういうものか知らない久住哲.icon
このテクストだけからは、ある議論に対しての全体での見解を決める会議だと予想できる。
一般に会議は、人々が集まって、こんな風になっている・こんな問題が起きているので、こういう風にやっていきましょうというのを取り決める場
「人間的な根據からは靈魂が肉體と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によつてのみその反對が理解せられる」は、論争上の見解だ
更に私は、多數の不信者が神の存し給ふこと、人間の精神が身體から區別せられることを信じようと欲しない原因はまさに、この二つのことがらは從來何人によつても論證せられ得なかつたと彼等が申しますところに存することを知つてをります故に、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反對にこれらの問題に對して偉大なる人々によつて持ち出されました殆どすべての根據は、十分に理解せられます場合には、論證の力を有すると考へてをりますし、從つて私は前に他の何人かによつて發見せられなかつたやうな根據は殆ど何も與へ得ないと信じてをりますとはいへ、しかもひとたびそれらすべての根據のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして嚴密に明瞭に解明し、かくてすべての人々の前に今後これが論證であることを確かにいたしますならば、哲學においてこれにまさる有益なことは爲し得ないと思慮いたすのであります。
論証の話がされている。
信なき人が神と霊魂を信じないのは、彼らがそれらがいまだ論証されていないと思っているからだ。
人間の精神と肉体の区別をしないのは不信者
そして最後に、私がもろもろの學問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成いたしましたことを知つてをります或る者は――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、眞理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して實のり多かつたことを見てゐるのであります。――この仕事が私によつて爲されることを切に請ひ求めました故にかやうにして私はこれについて若干試みることが私の義務であると考へた次第であります。
どうして「この方法は新しいものではありませぬ」という否定が挿入されるのか。
デカルトがある方法を使っていると周りの人が殊更に知るということは、その方法が、誰もが昔から普段から採用してきたものではないからだ。だが、その方法は昔から知られていたのだと著者は述べる。だとすると、「知っている」をどう考えればいいのか?
彼らが知ったのは、デカルトがある方法を使っているということ自体ではなく、その方法によってデカルトがうまくやったということだという風に、知られるものの対象をズラすことで、「新方法を開発した」という(いわば)自慢をしていると思われることを避けて、経験的で偶然的な成功の実績があるという単なる事実へと話題をシフトしている久住哲.icon
さて私が爲し遂げ得ましたほどのことは悉くこの論文の中に含まれてをります。尤も、かのことがらを證明すべきものとして持ち出され得るであらう種々の根據のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何等十分に確實な根據を有しない場合にしか、勞力に値しないと思はれるからであります。却つて私はただ第一の、何よりも重要な諸根據をば、今これらを極めて確實な、極めて明證的な諸論證として提出することを敢へて致し得るやうな仕方で、追求したのであります。なほまた私は、これらは、惟ふに、人間の智能にとりましては更にすぐれた根據を發見し得るいかなる道も開かれてゐないやうな性質のものであるといふことを、附け加へるでありませう。すなはち、ことがらの緊要性と、これが悉く關係するところの神の榮光とは、この場合私の習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るやうに私を強要する次第であります。
これは弁明だ
著作の論証の疎かさについて弁明している。その弁明の仕方をみると、論証が疎かであることは今の場合には問題ではないという仕方で弁明している。すなわち、本当は弁明の必要は無いと言っている。
これはアピールだ
自分の仕事が根本的なものだということをアピールしている
これらは、惟ふに、人間の智能にとりましては更にすぐれた根據を發見し得るいかなる道も開かれてゐないやうな性質のものである
すなわち、根本的ということだ
尤も私は、私の根據を確實で明證的なものと考へますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合してゐるものとは信じませぬ。まことに幾何學におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるひは他の人々によつて多くのことが書かれてをりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないやうな何物も、またそれにおいて後續するものが先行するものと嚴密に關聯しないやうな何物もまつたく含まない故に、すべての人によつて極めて明證的でまた確實なものとも看做されてをりますとはいふものの、しかしそれはどちらかといへば長く、そして非常に注意深い讀者を要求いたしますから、まつたく少數の者によつてのほか理解せられないのであります。恰もそのやうに、私がここに使用いたしますものは、確實性と明證性とにおきまして幾何學に關することがらと同等あるひはこれを凌駕しさへすると私は認めてをりますとはいへ、しかし多くの人々によつて十分に洞見せられ得ないであらうと恐れる次第であります。すなはち、一つにはこれもどちらかといへば長く、そして一は他に依繋いたしてゐるからであり、また一つには主として、先入觀からまつたく解放せられた、自己自身を感覺の連累から容易に引き離すところの精神を要求するからであります。そして確かに世の中には形而上學の研究に適する者は幾何學の研究に適する者よりも多く見出されないのであります。
哲学と幾何学の共通点。
使われている根拠自体は明白なものだが、それを理解する能力を誰もが持っているとは限らない。
前のものと後のものとが密接に関係している
アルキメデス、アポロニオス、パッポスは幾何学の学者だろう
更にまた次の點に差異が存してをります。すなはち、幾何學におきましては、すべての人が、確實な論證を有しない如何なることがらも書かれない慣はしであると信じてをります故に、精通しない者は、眞なる事柄を反駁することにおいてよりも、僞なることがらを、これを理解すると見せ掛けようと欲しまして、是認することにおいて一層しばしば過ちを犯すのでありますが、これに反して哲學におきましては、雙方の側において論爭せられ得ない如何なることがらもないと信じられてをります故に、少數の者のみが眞理を探索し、そして大多數の者は敢へて最もすぐれた説を攻撃することによつて、智能ある者との名聲を得ようと努めるのであります。
幾何学と哲学の対比
幾何学では論証されたものが書かれる
哲学では、どんな説にも反対の説があると考えられる
哲学という領域では、多くの人は、そこで名前を挙げようと思ったならば、優れた説を攻撃するムーブに走る