反生産的な議論内行為は課題を軽視する
そのうちに他の意見への遠回しな批判を多く含む新しい意見の立論……これは生産であり批判であると言えるかもしれない。
しかし、これを「批判ばかりしている」とは言えない。
すなわち、「批判が生産になる」ことはあるが、「批判ばかりする」という態度が生産的な態度になることはない。
そもそも「生産的」ってなにか?
久住哲.iconの一応の答え:次の行動に活かせる成果を残すもの。
「批判に対して反論するのも行動だから、批判は行動をもたらす〜」みたいな反論は無視する。
課題を見つけ、議題とし、議題の言語化の過程で議論が起こり、議題が明瞭になったら、それに対してどのように取り組むべきかが議論され、行動方針が定式化され、そうして最初の課題に対しての行動がいちおう定まる。
「行動」とは、そのような議論の果てに定まるものだ。
すなわち、生産的な議論とは、行動という暫定的なゴールにまで至る議論である。 この行動は、「最善の行動」でなくてもいい。
行動して、フィードバックを得て、またやり方を再検討する……ということをやってもいいのだから。
こういう文脈からすると、「批判ばかりする」とはどういうことかというと、「議論のゴールに向かうという目的を軽視して、むしろゴールに行くことを邪魔する」ことであるから、不毛である以上に、反生産的行為である。
このとき、前提として、「最初に課題がある」ということと「ゴールとして行動がある」ということとがある。
この2つはどちらも軽視されがち。
もし本当に課題があったならば、それは何らかのしかたで解決されるべきだが、課題はあるけど解決はしないままにしておく……ということがよくある。
スタンス:議論することに価値がある……というスタンスではない。
議論には意味がある。それは、状況を多角的に見る……という意味だ。
状況を多角的に見るならば、必然的に、他者の観点への批判(否定)が入ってくる。
この批判が「有益」ないし「生産的」なのは、状況あってこそである。
状況なき批判も、状況なき肯定も、議論を終わりへと向かわせないという意味で、反生産的である。