ワイルドがシェイクスピアに影響を受けているっぽい記述
ドリアン「……人生はなんて劇的なのだろう。もしこれを本で読んだならば、おそらく涙を流したことだろう。ところがいざそれが現実に起り、しかも自分の身に起ったとなると、それはなぜか涙を流すには勿体ないほどすばらしいものと思われるのだ。……」
(中略)
ドリアン「でも、薄情ではないと思ってくれるのはありがたい。ぼくはけっしてそんな人間ではないのだ。それは自分にもわかっている。それなのに、やっぱり、今度のことは、ぼくに当然与えるべき烈しい感動を与えないということを認めないわけにはいかない。なんというか、ただすばらしい芝居のすばらしい終末、そんなものとしか思われないのです。それにはギリシア悲劇のもつあの怖しいばかりの美がすべてそなわっているし、現にぼくはそこで大役を演じたのだけれど、それでもぼくは傷ひとつ負ってはいない」 (中略)
ヘンリー卿「……人生の現実的悲劇はいとも非芸術的なやり方で起る。そして、そのがさつな暴威、まったくの不統一、意味とスタイルとの欠如によって人間を傷つける。卑俗さにあてられるのと同じように人間はそれにあてられるのだ。そこでわれわれは、それが純然たる暴力行為であるという感じを受けて、あくまでもそれに反抗する。だが、ときには美の芸術的要素をもつ悲劇と出遭うこともないわけではない。その場合、もしこの美の要素がほんものならば、その悲劇全体は人間の戯曲感覚に訴えかけてくる。すると、われわれはもはや自分が出演者ではなく、観客となっていることに不意に気づく。というより、ひとりで俳優と観客の両方になっているわけだが、こうしてわれわれはおのれの姿を眺め、その光景のすばらしさに陶然とする、というわけだ。……」 この美学、この視点が、いわいる「ナルシシズム」かな?イタロー.icon そうかも、少なくともかなり個人主義的な感じがある。 人生をパーティーかドラマのように観ているね。あるいは、そのように化したものにしようとしている。ここを読んだだけでも、告白的な文学だと思う。イタロー.icon
これ以外にも、上記のシビルの母親であるヴェイン夫人は元役者であり、彼女が特に人生における各場面を劇として認識している感じがある。シビルの弟(息子)との会話があまり演劇的でない場合に落胆したり、劇的になったら歓喜したりする。
いや、ある程度の失望感さえあった。ぶしつけであからさまな息子の質問にたいしては、同じくあからさまな返答がされなければならない。徐々にクライマックスの場面に高調してゆく代りに、いきなりひどくがさつな場面が展開されているのだ。まるで、へたな下稽古そっくりだ、と女はおもった。 「していなかったよ」答えながら女は、人生はなんという苛酷なまでに単純なものだろうとおもう。 (中略)
この大袈裟で愚かしい嚇し文句、それに伴う気負った身振り、正気の沙汰とはおもわれぬメロドラマじみた口調のお蔭で、母親には人生が生き生きとしたものに見えてきた。こういう雰囲気が女にはぴったりときた。呼吸まで楽になり、ここ数箇月というもの感じたことがなかった息子への讃美の念をあらたにするのだった。そして、いつまでも同じ情緒的な雰囲気でこの場面を続けたいと思っていたが、無残にも息子がそれを遮った。