パスカル→ボードレール→シオランの系譜
ボードレールに関しては以下の文章を残している。
「一九六〇年一月一日 ボードレールを読まなくなってもう何年にもなるが、でも毎日、彼のものを読んでいるかのように、彼のことを考える。彼が《ふさぎの虫》の経験で、私よりはるかに徹底していたただ一人の人間のように見えるからだろうか」──『カイエ 1957-1972』、金井裕訳 以下のような文章もある。
ある作家が私たちに深い痕跡をとどめるのは、私たちがその作家のものを多読したせいではなく、度を越してまで私たちがその作家のことを考えぬいたせいである。私はことさらボードレールやパスカルに深い入りしたわけではないが、彼らの悲惨を思わぬ時とて絶えてない。それは私自身の悲惨と同じほど忠実に、いたるところ私についてまわる。『生誕の災厄』 なぜこの系譜が成立するかと言えば、まずボードレールは次のようにパスカルの思想に言及している。
「われわれの不幸のほとんどすべては、部屋にじっと留まっていられなかったことからくる」たしかパスカルだと思うが、もう一人の賢者はそう言ったが、そんなふうに言うことで、活動のなかに幸福を求めたり、今世紀のおみごとな言葉で言うならば、友愛的とよんでも差しつかえない売淫のなかに幸福を求めたりするあの狂乱した手合いを、すべて内省の独房のなかに呼びもどしているのである」 三者の執筆意図
また著者によると、パスカルが『パンセ』を執筆した動機は次のものである。 パスカルは「部屋でじっとしていられない」人間の行動や行為の根本原因を発見したが、それによって「死を運命づけられた人間の条件に固有の不幸」を発見するに至った。しかし自分以外の他人はというと、部屋でじっとしていられないから賭け事や仕事や社交や戦争といった気晴らしに熱中している。真実に気付いた者は苦しんでいるのに、真実に気付いていない者たちは気ままに生を謳歌している。これは不公平であり、神の意思に反する。よって、この事実を開示して、彼らをキリスト教に帰依するように導くのだ……。 少し偏りのある見方のような気がするが、パスカルがキリスト教の伝道の目的で『パンセ』を執筆したのは有名な話だから一理あると思う。
そして、キリスト教への誘導という点を除いて、これがボードレールが『悪の華』や『パリの憂鬱』を執筆した動機でもあり、シオランが多くの著作を執筆した動機であるらしい。
若い頃のシオランは重度の不眠症だった。幾日も、酷いときは一週間以上も続く不眠症だったといわれている。そして自分たちが考えられないほど何日も眠られぬ夜を過ごしていたことが彼の思想形成に繋がっている。これを受けて著者は、シオランの著作はみな、眠れぬ夜に営まれる他者への呪詛と復讐、およびその告白からなっている」としている。 ・不眠の一夜をすごすほうが、眠りに恵まれた一年間よりも、多くのことを学ぶものだ。別の言いかたをすれば、不当な暴力のほうが、昼寝よりもはるかに教訓的である。『告白と呪詛』 ・不眠症患者が日ごとに夜ごと耐えている磔刑に比べれば、たった一度の磔刑がなんだというのか。『生誕の災厄』 ・眠られぬ夜の一番明晰な時間を、私たちは心中で敵どもを切りきざみ、目をえぐり、はらわたを引きずり出し、血脈をしぼりあげて血を抜き出し、からだの器官という器官をふみにじり、粉砕するのに費やす。そしてただ骨だけは、お慈悲から享受させておいてやるのである。この譲歩をすませると、はじめて私たちの心は鎮まり、疲労にうちひしがれて私たちは眠りに沈んでゆく。『歴史とユートピア』