人間の不幸は部屋でじっとしていられないことに由来する
人間の不幸は、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
生きるために十分な食い扶持をもっているなら、それで満足していればいいのに、愚かな人間はそれに満足して部屋でじっとしていることができない。だからわざわざ社交に出かけてストレスをため、賭け事に興じて金を失う。
部屋でじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてそわそわするということ、つまり、『暇と退屈の倫理学』では「退屈するということ」と書かれている。 たったそれだけのことが、パスカルによれば人間のすべての不幸の源泉なのである。
パスカルはそうした人間の運命を「みじめ」と呼んでいる。
また、愚かな人間は、退屈に耐えられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言っている。
狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて一日中駆けずり回ることである。人は退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行く。
狩りをする人が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」に他ならない。
にもかかわらず、人間は獲物を手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。
パスカルは賭け事についても同じことを述べている。「賭け事をやらないという条件つきで、毎朝、彼が一日にもうけられる分だけのカネを彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる」。
毎日賭け事をしている人はもうけを欲しているのではなく気晴らしで賭け事をしているから。
パスカルは次のように言う。気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」。
退屈というのは人間が決して振り払うことのできない病である。にもかかわらず、この避けがたい病は、ウサギ狩りとか賭け事のような熱中できるものがありさえすれば簡単に避けられる。ここに人間のみじめさの本質がある。人間はいとも簡単に自分をだますことができるのである。
参考:『暇と退屈の倫理学』