タイトルは、それ自体の名前だ。例えば、ブログのタイトルは、その記事の名前だし、本のタイトルは、その本の名前だ。
知名は単なる「記事名」でも「題名」でもなく,森羅万象に付けることが出来る認知上の名前であり,その性質は既成語では表現出来ない。更に,「輪郭の名前」として輪郭に従属するものではなく,あくまでも「知の名前」として理解される必要がある。そうでなければ,そもそも輪郭が何を目的として何を扱っているのか分からなくなってしまうし,自己目的化しかねない。ここに知名という用語の必然性がある。輪郭とは,知の名前と知の番号を鍵に知そのものを具現化するものだ。
例えば、白銀ノエルさんを描写した輪郭の知名を私たちはどうしても「白銀ノエル」にしたがる傾向がある。だが、私にとって、本当に相応しい知名は「団長」なのだ。それは短いし自然だ。私は「団長」という知名の輪郭に「名前は『白銀ノエル』である」と描写すればいい。そして、一般的な名称としての「団長」は、私の認知パースペクティブにおいては背景に退いている。宝鐘マリンさんは海外のファンからはSenchou(船長)と呼ばれたりする。このとき、Senchouは一般名詞ではなく固有名詞になっている。 だが、もしも私がホロライブのことを知らなくて、たまたまテレビで宝鐘マリンという人を見て、彼女のことをデライトにメモするのだとしたら、私は知名を「宝鐘マリン」にするだろう。(決して「船長」にはしない。) 「ほら、あの日見た夕日だよ」
と話しかけることができる場合、いわば、その夕日の知名は「あの日見た夕日」でもよいだろう。あるいは、「あの夕日」でもよい。
その夕日に「スーパーシャイン」と名前を付けているとしたら、「スーパーシャイン」を知名にしてもいい。だが、私たちは無名のままにしている知をたくさん持っている。なので、知名は無でもいい。
だが、その夕日が記憶に残っているならば、それは何か別な認知対象と関連しているはずだ。例えば、家族との思い出とか。
そして、この家族との思い出というものも、また認知対象である。それは「家族との思い出」というありふれた知名を持つだろう。
もしも私が他の人から
「家族との思い出の話をしてよ」
と頼まれた場合、私はデライトで「家族との思い出」と検索し、そこに引き入れられている諸々を見る。
そこで、「あの日の夕日の話をしよう」
と思ったら、「あの夕日」という輪郭を見る。
そこには、その日の夕日が描写されており、もしかしたら、それにさらに別な輪郭が引き入れられているかもしれない。
例えば、「あの日の会話」とかいう知名の。
だが、ふつう、ただ想起するときには、明示的に「あの日の夕日の話をしよう」だなんて心のなかで宣言なんかしない。
知名というコンセプトは、この仮想的な宣言を一般化するとしたら……という想定を、メモの形に具現化することである、と私は言ってしまいたい。この想定にとって、会話の場面をイメージするという方法は有用だと思う。
以上の記述で、「あの夕日」や「あの日の会話」がタイトル(記事名・題名)ではないということの意義を説明できたとは思わない。