ショーペンハウアーの幸福論「苦痛の不在」
彼は「幸福」をペシミスティックに考えた。一つには幸福とは「苦痛の不在」を意味すると考えた。
ショーペンハウアーは下記以外にも色々なことを書いている。
例えば、(孤独でいるときのみ人間は自由なのだから)「孤独を愛さない人間は自由を愛さない人間だ」、(苦悩のほとんどは社交界から生じるものなのだから)「社交を必要としないものを内に備えていることは幸福だ」など。
あらゆる幸福は消極的な本性のものにすぎず、積極的な本性のものではない。まさしくこのゆえに、持続する満足やしあわせというものはありえず、常にただ苦痛とか欠乏とかから救い出されてきただけであり、そのあとに続かざるをえないのは、新たな苦痛であるか、そうでなければ、ものうさ、むなしい憧れ、退屈ですらある。
『意志と表象としての世界』斎藤忍随、笹谷満、山崎庸佑、茅野良男訳
「人生とは苦痛と退屈との振り子運動」
一生の総決算を幸福論的な見方に立って引き出そうとする場合、自分の享楽した喜びによって勘定を立てるべきでなく、のがれた災厄によって勘定を立てるべきである。むしろ幸福論という名称そのものが粉飾的な表現なのであって、「幸福に生きる」ということは「あまり不幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解すべきものであるということから、幸福論の教えが始まるのでなければならない。もとより人生は本来、楽しむべきものでなく、克服し始末をつけるべきものなのである。
ショーペンハウアー『幸福についてー人生論』
以下、全部『幸福について』から。
自己に満足し、自己にとって自己がすべてであり、「私のものは私がいっさい身につけてもっている」(ギリシアの賢者ビアスの言葉)と言うことができれば、それこそ幸福にとっては最も好ましい性質であるにちがいない。だから「幸福は自己に満足する人のものである」というアリストテレースの言葉は、何度でも繰り返してみるがよい。
足るを知ることは幸福の大きな条件である。
だから善事につけ悪事につけ、特別な災難はともかくとして、自己の生涯にどういうことが起きるかということよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題なのである。人の内面のあり方と人の具有するもの、つまり人柄と人柄の価値とが、人の幸福安寧の唯一の直接的な要因である。それ以外のものはすべて間接的である。
自分の内面のあり方が幸福には重要なのだ。
内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からはほとんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。
これがショーペンハウアー的には最も幸福な人間なのだろう。