アープラはなにものでもなくはないという考え(く)
こういう考えの人もいると思う。自分なんかは割とそうかもしれない。
アープラに人生のリソースをさくほどの価値はあるような人は、多分会長くらい。それにかまけて人生の他のものを捨てるほどの価値はあるのか?という自分の感想。
冒頭部分はそうかもしれない。個人的にはアープラに人生のリソースを割く価値があると思っている。
しかしだからと言って、アープラのために他のものを捨てようとも思っていない。ネットコミュニティだし、普通にリアルのこととも両立が可能。 なぜアープラに人生のリソースを割く価値があると思っているか
理由1:アープラの代わりになるサーバーがない
骨丸さんがいなかったときに割と頻繁にアープラを抜けようと考えていた時期がある(実際、1年半くらい消えていた)。1、2年近く姿を見せず(今思うと執筆してたんだと思うけど)、サーバーを放棄したのかと訝しんでいた。 そういう意味では骨丸さんの崇拝者とも言えなくはないのかもしれない。
理由2:骨丸さんのカリスマ性
骨丸主義者の定義は人によって異なるのだと思うが、骨丸主義とはアープラは本来、骨丸さんのサーバーであり、骨丸さんの作った絶対規則と行動規範をできるだけ遵守するアープラユーザーを指すのだと思っている。 崇拝者ではないので、仮に骨丸さんがオンラインサロンを作っても、自分は嫌儲くさいところがあるので参加するかは分からない。くふろうのキーホルダーは思い出作りのために買ったが、骨丸さんのために大金をかけようとも思っていないし、そんな金もない。 骨丸さんの崇拝者ではないが、骨丸さんは凄い人だと思っている。理由1にも繋がるが、骨丸さんがリーダーでなければここまで巨大なサーバーにはならなかっただろう。実際、アープラを真似て作ったdiscordサーバーがちらほらと存在するが、アープラほど運営が軌道に乗っていないように見える。あの人には人を動かす力や、この人についていけば何か夢を見させてもらえるかもしれないみたいな期待感がある。こういうものをカリスマ性というのかな?とか考えている。 今の自分にとっては理由3が一番大きい。アープラ(ノート)を眺めているだけで、知識欲とか知的好奇心みたいなものを駆り立ててもらえる。読書の駆動力のようなものが見ているだけで手に入る。ので、いる。 生きていく上で読書をする必要なんてない。教養なんて必要ないと言えばない。けれども、1人でゲームしたり、5chをだらだら見て書き込んでいるよりは有意義な時間の使い方だと思うから読書をしていたい。あと色々なことをもっと知りたい。そういう部分でアープラ(ノート)は今の自分にとって割と大きな価値がある。