なぜVCを推したか
思想・哲学・文学・芸術の会でボイスチャットがあまりなされていない時代に、俺は、「DiscordはVCをやるツールだ」と思っていた。
これは、先入観のひとつではある。
もちろん、テキストメインのやりとりでも十分楽しいし有意義である。テキストメインのやりとりが《不足した状態だ》と思っていたわけではない。
なので、俺自身は音声通話は苦手だしやりたいわけでもないけれど、VCを勧めた。
このようにしてVCが定着すると、別な目的・別なニーズが生まれてくる。
これは、VCというエクストラが生じることにより、思想・哲学・文学・芸術の会全体の再布置が起こるということだ。 そのような状況になってようやく《テキストのみでは不足があった》という意見を持つことが可能になってくる。
ただし、こういう意見を持つだけで有益だというわけではない。
なぜならば、テキストのみでも特定の目的を満たすことはできるからだ。
重要なのは、VCという選択肢が増えたことにより、より柔軟な議論が可能になるということである。
また、本当に実際に柔軟になるかどうかは、また別な話である。
選択肢があっても運用されない、運用が適切に行われないことはままある。
この再布置を豊かになると捉えるか、散漫になると捉えるか、こういったところは解釈が分かれる。
変化が面白い、ということについて考えるに、
まず、いま目の前にあるものの面白さが最大限に発揮されることが第一であると思っている。
すなわち、偶然不適切(※1)な形で固まったものに対して、本来の用途や目的に基づいて、流動化させる行為がまずなされるべきだ。
※1 不適切というのは語弊がある。まず言っておきたいのは、十分に適切でない形であろうとも十分に目的を満たせることはある、ということ。しかし、より多様で柔軟な形態、強い形態を目指すとしたら、適切性を追求しつづけるのは重要だと思う。
もしも、内輪で楽しみたいならば、そういうものは要らない。しかし、俺の解釈した思想・哲学・文学・芸術の会の方針は、《変化する面白さを楽しむ》というものだったので、場を開いていこうとした。