『快楽主義の哲学』要約
著者の澁澤龍彦はまず「快楽主義の哲学」を論じるにあたって、世間に流通している様々な道徳的な観念を攻撃し、読者の精神におどしをかける(第一章、第二章)。 例えば以下のようなことが主張される。
「人生に目的などない」ということ(そもそも動物に目的などない)
幸福なんていう曖昧な観念を頭から追い出し、「『幸福より快楽を』という生活信条を持つべきだ」ということ 隣人愛や利他主義に代表されるような博愛主義、カントの人格主義やその他の道徳、空虚な理想論に惑わされず、動物的に生きればいいということ etc)
けちくさい形式的な道徳や、空虚な理想論などにまどわされず、すいすいと快楽の海を走っていく軽快な舟の姿を想像してください。古めかしい道徳は、暗礁です。こんなものに乗りあげたら、たいへんだ。欲望という、美しい灯台の光だけを目標にしていればよい。
第三章、第四章では、著者は「動物的に生きる」ことを勧めたり、「隠者の理想」を賞賛するような主張をしたり、「情死の美学」を賛美したり、「乱交のユートピア」を思い描いたり、「性感帯の拡大」によるエロス的な力の無制限な解放を呼びかけたりしている。
これらのテーマに共通している性格は、アンチ・ヒューマニズム(反人間主義)であるといい、21世紀の快楽主義はアンチ・ヒューマニズムを志向するべきだと著者は考えている。 それは「人間の限界を突き破り、人間以上の存在にする」ということであり(それは人間の存在様式の変革であると同時に人間の肉体的条件の根本的な変革である)、そのために取り壊さなければならない偏見がたくさんある。
人間には「死」という避けては通れない問題がある。古代ギリシアの倫理哲学者たちには「いかに死ぬか」という問題があり、近代の生産性社会は「いかに生きるか」ということばかりに関心を向け、死の想念を殺菌消毒しているかのようだ。つまり著者は人間の死への意識を変革できるような思想・科学を探求し、その答えが快楽主義のあるのではないかと主張する。
わたしは、エロスの力を解放すれば、それだけ人間は死と親しく交流することができるようになる、と信じるものです。死とエロスは、楯の両面です。情死の問題などは、その極端な一例にすぎません。つくづく思うのですが、宗教ではなくて、人間の死に対する意識を根底的に変革することができるような、なにか予測しがたい新しい魂の科学は発見されないものでしょうか。そういう科学を、ぜひとも緊急につくり出すべきではありますまいか。
そして第五章では、快楽主義の巨人たち──ディオゲネス、李白、アレティノ、カサノヴァ、マルキ・ド・サド、ゲーテ、サヴァラン、バルザック、オスカー・ワイルド、アルフレッド・ジャリ、コクトーなど──の生き方が紹介される。
第六章は、快楽主義の実践編となっている。まずそのためには著者のイメージする現代の快楽主義の理想像が必要で、そのために深沢七郎、岡本太郎の2人が挙げられる。 この二者のイメージを読者の頭の中に埋め込ませた上で、「誘惑を恐れないこと」、「一匹狼も辞さぬこと」、「誤解を恐れないこと」、「精神の貴族たること」、「本能のおもむくままに行動すること」、「労働を『遊ぶ』こと」、「レジャーの幻想に目を眩ませられないこと」が強調され、最後に「快楽は発見である」という言葉とともに結ばれている。
自分で味わってみなければ、何もわかりません。新しい快楽は、自分で味わい、自分で発見すべきものだということです。