「自分の義務を果たせ」
君が自分の義務を果すにあたって寒かろうと熱かろうと意に介すな。また眠かろうと眠りが足りていようと、人から悪くいわれようと賞められようと、まさに死にしていようとほかのことをしていようとかまうな。なぜなら死ぬということもまた人生の行為の一つである。それゆえにこのことにおいてもやはり「現在やっていることをよくやること」で足りるのである。
この「義務」というのは、注釈によるとストア倫理学の用語で「特定の人間が置かれた具体的状況やその社会的役割に適う行為の外的側面で、自然的社会的関係からおのずと定まる人間の務め」を意味する。
何をなすかを選択すること、あるいは「どのように」なすかは思慮の徳(意志)の働きであるが、人間として社会に生きる以上、「何を」すべきかは多くが(例えば、父、夫、市民など人間の「役割(prosōpon, persona)」として)一応は定まっている。 /icons/hr.icon
すべて生命を有するものの義務はその創られた目的を果すにある。しかるに人間は理性的に創られた。ゆえに人間はその自然に従って、すなわち理性に従って生きれば、自分の創られた目的を果すことができる。そのためには絶対に自律自由でなくてはならない。他人にたいしてしかり、また自分の肉体からくる衝動や、事物にたいする自分の誤った観念や意見にたいしてもそうであって、これに囚われてはならない。なかんずく死にたいする恐怖から解放されていなくてはいけない。
(中略)
ここにおいてストア哲学は、その実践倫理に特有な思想として、我々の自由になることとならぬこととの区別を強調する。我々の自由になることとは我々の精神的機能、わけても意見をこしらえたり、判断をくだしたりする能力である。また徳および悪徳である。これに反し我々の外部にあるものは我々の力でどうにもならない。我々の肉体もその一つである。これ以外のものはすべてどうでもいいこと(adiaphoraすなわち善でもなければ悪でもない無差別なこと、あるいはmesaすなわち徳と悪徳の間の中間物ともいう)である。たとえば健康と疾病、富と貧、名誉と不名誉等である。したがって我々は自分の意志でどうにもならぬことはこれをつぶやかずに忍び、どうでもいいことはこれを求めもせず避けもせず、どうにでもなることすなわち我々の内心の営みにのみ本拠をおいてそこに独立と自由と平安を確立すべきである(五・二〇、六・三二、四一、四五、その他)。 私たちはみな宇宙国家の市民である。私たちはみな宇宙の一部であり、宇宙の自然のもたらすものは善であるから(第二巻の三)、自分の運命を歓迎し宇宙の自然に適うような行いをしていればいい。
第6巻の九にも「九 万事は宇宙の自然に従って遂行される。」とある。
第2巻の四には次のように書かれている。
しかし今こそ自覚しなくてはならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。
第5巻の八
宇宙の自然の善しとすることの遂行と完成とを、あたかも自己の健康を見るような眼で見よ。したがってたとえいささか不快に思われることでも、起ってくることはなんでも歓迎せよ。
第二巻の五にはこうある。
至る時にかたく決心せよ、ローマ人として男性として、自分が現在手に引受けていることを、几帳面な飾り気のない威厳をもって、愛情をもって、独立と正義をもって果そうと。
第6巻の二十二にも似たような警句が出てくる。
私は自分の義務をおこなう。ほかのことは私の気を散らさない。なぜならそれは生命のないものか、理性のないものか、または迷って道をわきまえぬ人びとであるからだ。
第6巻の二十六にも出てくる。
それと同様にこの世ではすべて義務というものは幾つかの項目によって成っていることを記憶せよ。君はこれらを守り、腹を立てる人びとにたいしてこちらからも腹を立てずに、目前の仕事を秩序正しく遂行しなくてはならないのである。
第6巻の三◯にはこうある。
単純な、善良な、純粋な、品位のある、飾り気のない人間。正義の友であり、神を敬い、好意にみち、愛情に富み、自己の義務を雄々しくおこなう人間。そういう人間に自己を保て。哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。