「経験から解きほぐされる体験と、記述されようとする体験」
『嘔吐』読んでいる途中ですが、書きたくなったので…… 作家ロベルト・ムージルは、あるエッセイの中でだいたいこんなことを述べています――体験(その場かぎりの一回性の出来事)は、概念(言葉)によって経験(物語)になる、と。つまり、われわれは体験したことを言葉で捉えて経験として蓄積する。と同時に、経験は概念の使い方を変えていく。芸術とは、体験によって概念と経験の成り立ちを更新するものだ――と。 『嘔吐』には、主人公ロカンタンの経験が描かれています。彼は〈吐き気〉を中心とした観念体系のメタファーとしてのブーヴィルでの生活を日記に書きつける。いや、もちろんロカンタンの書くことは彼の経験に他ならず、彼自身はメタファーとしてではなく経験として書いている。メタファーとして書いているのはサルトルである。 サルトルは非常に巧みに、意識的に言葉を練り上げ、ロカンタンの経験を、〈吐き気〉という思想を背景としたシーンを記述する。読み手は、ロカンタンの日記を読むことで、彼の経験を再び体験に解きほぐし、追いなおすことができる。つまりここでサルトルが狙っているのは、いったん経験(物語)になった体験を、丹念に概念化(思想化)することで、〈吐き気〉におおわれた生を読者にも生きさせることです。その意味でサルトルは極めて高度な抽象化を行っていると思います。ここでの高度な抽象化とは、単純化・簡略化・紋切型化――つまり角を取って丸くするような――ではなく、その記述対象(この場合はロカンタンの経験)の最もエッジの効いた部分をさらに磨いて鋭く尖らせ、よりその形態を露わにしなおすことです。 さて、このようにサルトルの方法論に関心を向けたとき、対比的に思い起こされるのはサミュエル・ベケットです。サルトルと対比することで、彼は極めて興味深い対照を浮かび上がらせると思います。 通常、小説の背後にあるのは、思想です。一見、思想的でない小説であっても、そこに構造が、物語がある限り、思想が読み取られうる。抽象化が可能なものが前提としてある。もちろん、それがその小説の全てではないにせよ、です。サルトルの場合、われわれが『嘔吐』の背後にある思想を抽出することは可能であると思われますが、ベケットの作品については、背後にある思想を抽出することは極めて困難であると思われます。これは彼の作品を「読み解く」むずかしさにも関わっている。彼の作品の読み手が感じることを、あえて列挙しようとすれば、いわゆる不条理、物語のどんづまり、記述の限界、世界の不完全さ、喜劇と悲劇の混淆したアンチ・ドラマ、といったものがあげられるかもしれません。
ベケットにおいて、記述されている/されようとしているものはなんでしょうか。ベケットの小説がいわゆる物語であるとみなされることは稀でしょう。ではベケットの書いているのはまさに「名づけえぬもの」なのでしょうか。ある意味ではそうでしょう。しかしこれが文学(言語による表現)である以上、それは名づけられようとしているのです。
ベケットにおいて記述されつつあるもの――ひとつには、それは体験そのものであるといえます。たどたどしく、しかし妥協無く試みられた彼の記述は、サルトルのようにロカンタンの経験を描くことで〈吐き気〉のような観念体系を追体験させるのではなく、モロイの体験を、そのエッジ、輪郭、境界そのものを言語化しようとつとめます。ちょうどベケットがジェイムズ・ジョイスの作品について「これは何かについてではなく、何かそのものだ」と指摘したように。
とはいえベケットの行っていることも、言葉による表現である以上、抽象化であるには違いない。しかしこのようにいうことはできると思います――意識的に経験を描いたサルトルは思想の体験化を狙い、注意深く体験を記述しようとしたベケットは言語と体験のかぎりない肉薄を狙ったのではないか、と。両者はそこにもうひとつの生の可能性をみたのではないでしょうか。