📖『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎 訳(左右社)
https://scrapbox.io/files/62434aefc0ff6a00373a7029.jpeg
https://amzn.to/4kvdNen
『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎 訳(左右社)
📖第一章
この章だけでもあまりに豊かで、何度も読み返してしまう。
歩く時にどんな風に体を感じているかから始まっているのも好き。
歩行の歴史は書かれざる秘密の物語だ。
歩く、という多くの人にとってはとりわけ特別でもないことの中に、現在わたしが歩いているという感覚から、かつて歩くということでだんだん見始めた世界の輪郭や、そこに見える景色から見えない心の風景、生まれてきた道具やかたちのない思想…ありとあらゆることが歩くことを通して語れるというこの書き出しにわくわくする。
アフリカから、世界中に向かって歩きだした遠い先祖のことにまで想像を巡らせたり。
想像力は二本の脚が踏みしめてゆく空間を変容させると同時にそこから影響を受けてきた。
ここなんだかシシ神様みたい
「影響を受けると同時に、空間を変容させる」だったらきっとシシ神様みたいじゃなかった
誰もが歩くことについてアマチュアである
歩くことや、日記のようなさもないメモを書きつけること、自分の体の様子を試すようにちょっと動いてみること、食べるために作ること。
自分にはたどり着けないような極められた技を見ることやそこから語られることにも勿論興味があるけれど、アマチュアであること、のようなものの中だからこそ聞きたいことがあるな。
それは自分にも手が届くことだからなんだろうか。
その新鮮な喜びには、いつまでも慣れてしまうということがない。
私は都会育ちなので、子供の頃に海や山に訪れて胸がつまるような美しい景色を見た時に、こんな景色を毎日見ることができたらどんなに良いかと思う反面、こんな美しさにも慣れて、なんでもないことになってしまうのだろうかと思うと少しさみしかった。
でも実際には、どんなことも一瞬も同じではなくてそれを感じ取ることができるのだから、飽きたり見慣れたりしないのだなということが分かった。
そういうことが分かったのはもしかしたら体という毎日ちっとも一緒ではないものと格闘してみたからなのかもしれない。体は一番身近にある、自分の意志ではいかんともしがたいもので、森とか海みたいなものだもの。
歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながらも、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没し切ることなく考えることを許される。
これは、(逆説的になっちゃうかもしれないけれど)もしかしたら体というものが自分のものなのに自分の思い通りには必ずしもならないということを文字通り身を持って感じさせてくれるものだから、ということと関係があるのかもしれない。
言葉や思索は自由に膨らませられるしどこにでも飛んでいけるけれど、独りよがりにもなれる。いくらでも。
でも体はそうはいかない。現実だから。リアルな物体で、想像のように動くことはまずないから。
歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。
歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。
これはほんとうにそうだ。
電車とか、あまり早いバスとか、胸がどきどきする。
チベットだったかの逸話で、あまり早く進み過ぎたから精神がおいついてくるのを少し待つ、というのを聞いたことがあるけれど。
体にリズムが生まれて、それによって呼吸にもリズムが生まれて、見えるものが移り変わる速度も変化するのだから、それが思考に影響しないわけがないのかもしれない。
身体的なスピードが、内部に及ぼす作用は思いの外密接。呼吸もそうだし、力を抜いてみる、ちょっと無理が出るくらい運動してみる、体の硬さは精神的な防御力と無関係ではない…とか。
精神もまた風景に似ているということ、歩くのはそれを渡ってゆく方途のひとつだということをわたしたちは知らされる。新しい考えもずっとそこにあった風景の一部で、考えることは何かをつくることではなく、むしろ空間を旅することなのだと。
10歩あるいたら、その経験を持った体が次の10歩をあるく。10はただの数字ではなくて、記述しれきないさまざまなことを含みながら、受け取りながら歩いている。風で枝が揺れたり、マフラーの隙間から冷気が入り込んで毛穴が縮んだり、水たまりを避けたり、帰りはあのパン屋さんに入ろうと考えたり、車の音、ひととすれ違う、足の裏で感じる地面はアスファルトなのかコンクリートなのか、石がちなのか。その全部を持ち越したり、うまいこと忘れたりしながら。
本を読む中でもそういう積み上げ、選び取る瞬間の重なりのようなものを感じるけれど、紙の本をめくりながら読むというこの手の動き/感触も(付箋をつけたり線を引いたり書き込んだりといったこともふくめ)、身体的な経験として大きな要素なのかもしれない。
歩く、とか本をめくる、というとりたてて意識をしないでもできる作業の動きは、その単調さゆえにむしろ、その一挙ごとに受け取る微細な差異というものが砂のように積もって、どこかで無視できないものになるのかもしれない。 #積み上げること
それ自体が移ろってゆく身体の運動によってしかある種の放浪への憧れは慰めることができない。
これはコロナ禍で多くの人が改めて実感したことではないか。
重々しいコンクリートの銃座、バンカー、トンネルは農家のように消え去ることはない。しかし消え去った酪農家の家々も、野草の間から顔をのぞかせる園芸植物という生きた遺物を確かに残したのだ。
根から切り離された木を使って建てられた家は朽ちることがあっても、根っこのある植物はその植物のサイクルの限り、その場所に繰り返し芽吹く。とっくに家主がいなくなったのに、庭の植物や作物だけが残るというのは不思議な光景だ。廃墟が植物に覆われてゆくのとはまたちがって、そこにはもういない人の精神のかたちだけが残っているかのよう。
謳い文句は「雨の日にも図書館まで歩かなければアクセスできなかった百科事典。お子さまにはそんな苦労をさせたくない。クリック一つで知のすべてをお約束します」。でも本当に教育になっていたのは雨のなかを歩くことだったのではないだろうか──
子供の頃に通った図書館のことはあまり覚えていない。中学生〜大人になるまで育った北新宿の、グラウンドの近くの図書館への道ならいまでも目を閉じてたどってゆくことができる。その道は図書館に行く時ばかりではなくて友達とつい話し込みながら歩いたり、男の子と女の子と混じってちょっとどきどきしながらたむろした高台のベンチのあたりとか、沈丁花とクマンバチはいつもセットなのだと知った赤いゴムで覆われた坂道、野球場から響いてくる声やバットの音、図書館の入り口の、いつも向こう側がなんとなく暗いため近づいてゆくと自分が映ってぶつかると思う瞬間に自動で開くドアのガラス、…。
じっとしていると体は重く沈み頭のなかだけが肥大してゆく。
激しい運動では体が大きな矢印を持って主張しだす。
歩く、というくらいのことは、意識しないでもできて、体が景色の中を移動し、その間にも細かなことに遭遇する、その強度と速度がちょうどいいのだろうな。
テクノロジーは効率性の名のもとに増殖し、生産に充てられる時間と場所を最大化し、その間隙の構造化されえぬ移動時間を最小化する。そうやって空き時間を根絶してゆく。多くの労働者にとって、新しい時間節約の技術は世界を加速させて生産性を向上させはしても、ゆとりを生み出すことはない。こうしたテクノロジーには効率性というレトリックが付きもので、そこでは数値化されないものは評価され得ない。
たとえば放心する、雲を眺める、そぞろ歩く、ウィンドー・ショッピングをする、といった何もしないことにカテゴライズされる楽しみの多くは、もっと確かで生産的な、あるいはもっと性急なもので埋められるべき空隙に過ぎない。岬へと続くこの道には意味のある目的地はない。楽しみのために歩くことがそのたったひとつの意味なのに、効率性の追求がもう習い性になってしまったと言わんばかりに、蛇行する山道にはショートカットが拵えられて
移動よりも到着することの方がよほど重要であるという主張は恐ろしいものだとも思う。
最近社会の中にぽつぽつと噴出している問題は根をたどるとすべて同じ場所にいきつくような気がする。
人間は苦労しないためにこうして社会を発展させてきたのだけれど、労力をかけたり、多少の困難や痛みを伴わないと獲得できないことは、案外多い。多いし、それをいつのまにか失うことがどれだけ重大だったかということに、もしかしたら多くの人は気づかないのかもしれない。
失ったことに、失った痛みに気づかないならさほど大切なものではないのではないか?という風に思うかもしれないけれど、それを失わずにいるために腐心しているものにはその重要性が分かるし、それを説明することがいかに重労働かということもわかるし、その手段のひとつが芸術のような直接的でない表現なのかもしれない。
わたしたちの精神も肉体の足取りと同様、時速三マイルで動いているのではないかと思っている。もしそうならば、現代生活は思考のスピード、思慮のはたらきを越える速度で営まれていることになる。  
シェルパ(だっけ?)があまり早く自分たちが進むと、精神が追いついてくることを待つということをする、という話を思い出す。このひとたちは、歩くスピードすらこころのスピードには速いと言っている。
この本はきっと多くの方にとって、どんな時に読んでも「今読むべき本だった」という気持ちになるのかも知れないなあということを思う。
私にとっては、感染症で外に出られなくなって、そのおかげでネットで享受できるものが増えて、便利だし楽しかったはずなのに何かだんだん良くわからない焦りや、見きれない/聞ききれないものの量に溺れるような感触を覚えることがあった。
もちろん自分で選択できるものなのにな。
だんだん外にも出られるようになって前の生活を取り戻しかけている今のタイミングでTwitterの存在が脆弱になった。そのことでふたたびネットのようなものとの付き合い方について考える機会があって、そういう現在だからこそ、この「歩く」ということや、本当に私がつきあってゆけるものの量やスピードについて考える読書になりそう。
その土地に驚かされることがないうちは、まだまだ界隈をよく知っているとはいえない。
カチューシャが飽きずに近所を散歩していることを思い出す。私はまだまだこのへんのことを知らないな。
2021-12-04 カチューシャは風の子、出番だ!!アウトライナー!!!#61ab5221eff4c000004e820a
その土地に驚かされることがないうちは、まだまだ界隈をよく知っているとはいえない。歩くことは、こうした内面や身体性や風景や都市の豊かさが失われてゆくことに抵抗するための防波堤を維持するひとつの手段だ。歩行者は誰もが言葉に表現されないものに目を配る守衛なのだ。
カチューシャは、部屋の床にいつもは落ちていない本とかタオルが落ちていたりすると目ざとく見つけて鼻を近づけにゆく。私みたいに、「ここはいつもの部屋だけどあれとあれが散らばってる。おしまい」じゃなくて、もっと違う地図を頭の中に持っているのかもしれないな。
通勤の道とか、買い物の道とか、もうとっくに知っているよという道をカチューシャみたいに歩けるような工夫を投げかけられたら面白いかもしれない。自分が見せるダンスじゃなくて、そのひとそれぞれがそのひとの体で行うことができる、からだを通したスペクタクル。 #💡舞台のアイデア
法水さんや高山さんがやっていそう、だから全然新しいアイデアでもなんでもないのだけれど、それを散歩や日記的にできるようなことないかなー。
場所に身を投じたなら、場所はわたしたち自身を投げ返してくれる。場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。
うんとむかし、まだ自分も積極的に写真を撮っていたころ、友人の写真の展示を見に行った時に、なぜインターネットでいくらでもその人の写真作品を見ることができるのにわざわざ会場に身を運ぶのか、というようなことを考えていた時期だったけれど、「明日は会場に行こう」から始まって、道順を調べたり、行ったついでに他のギャラリーも見ようと計画したり、着ていく服を選んで、電車に間違えないように乗り、地図を見ながら会場にたどり着き、その場所に入り、どの写真から見ればいいのかな?を選択し、さっきみた写真を視界の端に捉えながら、自分の背後にもあるまだ見てはいない写真にたどり着くまでに、私はこの写真作品群をどう見るんだろう、他の人がひとつの作品を見る時間の長さ、もし作家がいたら私は何を言うんだろう、見上げてみたら天窓があって、もし今日みたいに晴れておらず雨だったら会場の光は違ったものになるだろうし、ここに来るまでの私のからだの感触も全然別物であっただろう、ということを考えた。
なぜわざわざ直接見にいくのか。
そんなことは、直接見に行ってみたら説明するまでもなくわかることなのだった、と、ただすんなり納得した。 #足を運ぶということ
(キルケゴールのこと)彼は子どものころからすでに老人として、あるいは幽霊やさまよえる者として自己を捉えていた。その行きつ戻りつする歩みは、想像力という、肉体と現実世界を離脱した圏域に生きる手ほどきだったようにも思われる。
よく知られた著作にも用いられた無数の筆名は、自分自身を証しながら同時にその姿を消し去り、孤独のなかから群集をつくりだす装置だったのではないか。
この行為、ボルタンスキーとの違いはなんだろう。 #あとで #ChristianBoltanski
ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。
キェルケゴールはこの日記やそのほかの文章で、精神がもっともよくはたらくのは周囲に気を散らすものがあるときだという考えを記している。周囲の喧騒から隔たってゆく過程ではなく、自らのうちに退いてゆく過程において集中力が発揮されるのだ、と。「まさにいま、通りではオルガン弾きが演奏しながら歌っている。素敵だ、これこそが人生という重要事における無意味な随伴物なのだ」。都会生活の騒乱に身を浸しながらそう書くこともあった。
からだはそこにいながら、内なるからだのなかを移動している
現象学者エドモンド・フッサールは一九三一年の論文において、歩行とは自己の身体を世界との関係において理解する経験であり、「生き生きした現在と、有機体外部を取り囲む世界の構成からなる世界」であると述べている。
その収穫はいまだに乏しい。移動性(モビリティ)と身体性を大きなテーマとしてきたポストモダンの理論は、歩行についても多くを語っているだろうと思うのはもっともな期待だ──歩くとは、身体が移動性を獲得することにほかならないのだから。現代の理論の多くは、男性、場合によってはさらに特権的な、白人であるという特殊な経験を普遍化してきた従来の理論への、フェミニズム的な異議申し立てから生まれたものだ。フェミニズムとポストモダニズムはいずれも、個々人の知性の枠組みはそれぞれの身体経験とおかれた場所の特殊性によってかたちづくられると強調する。どこでもない場所で語る、すなわち発話しながら、その特定の身体と場所を越え出てゆくという旧来の客観性の理念は葬り去られた。あらゆる物事は何らかの状況に由来し、あらゆる状況は政治的なものだ(はるか以前にジョージ・オーウェルが喝破した如く、「芸術が政治的であってはならない、という意見はそれ自体が政治的意見である」)。思想家たちは、民族やジェンダーに規定された身体が意識に果たす役割を強調することで、偽りの普遍性の解体を試みた。しかしながら、身体が環境からの隔離の度を強め、大幅に受動的な存在となりつつあるなか、どうやら彼らは自分たちの特殊な経験──あるいは経験のなさ──を拠り所にして、身体性や人間性の意味を一般化していたようなのだ。  
ここのところ、構造主義とかポストモダンについての理解が浅くてよくわかりきっていない。ポストモダンの移動性といえば東浩紀さんの観光についての本が面白かったし、もしかしたらもう少しそのへんから読み直してみようかなあ…。このあとにポストモダンに登場する体についての批評があるけれど、深く理解していないのでそのうち。 #あとで
エレイン・スカリーの堂々たる『痛む身体──世界の解体と創造』は、まず拷問がいかにして対象者の意識世界を破壊するかを考察し、創造的な営み、すなわち物語や物体の創作がいかにしてその同じ世界を構築するのか論究する。スカリーは道具や製品を世界に差し込まれた身体の拡張とみなし、それゆえこうしたものは世界を知る手立てなのだという。彼女は道具が次第に身体から隔てられてゆくさまを追う。地面を掘るための腕の延長だった棒切れは、身体の代わりをつとめるショベルカーに変わってゆく。歩くことを直接に論じることはないが、この著作にはこの主題に向きあうための哲学的なアプローチが示唆されている。歩行は、身体を本来の限界へふたたび還元する。しなやかで、敏感で、脆弱なものへ。一方で、道具が身体を拡張するように歩行は世界へ延びてゆく。歩行の拡張が道をつくる。歩くために確保された場所はその追求のモニュメントであり、歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ。ゆえに歩く身体はそれがつくりだした場所に追うことができる。小道や公園や歩道は、行為にあらわれた想像力と欲望の軌跡であり、その欲望はさらに杖、靴、地図、水筒、背嚢といった物質的帰結をつくりだす。歩くことが、事物の制作や労働と同じように備えている決定的な重要性とは、身体と精神によって世界へ参画することであり、身体を通じて世界を知り、世界を通じて身体を知ることなのだ。
引用しすぎだな。
その多くが教会堂や聖遺物箱のように映り、ビロード張りの座席にいたっては棺桶を連想させたという。
車のシートの豪華さを、棺桶の内張りの華美な感じと繋げて考えたことがなかったけれど面白いな
注意ぶかく歩きすすんだあとでは、静かに待ち受ける終着点が心底からの感激を誘った。ようやく視線をあげると、東の青空に鉤爪か羽毛のような白雲がたなびいているのが目にとまった。迷宮では、さまざまなメタファーや意味が空間を通じて伝わってくる。息をのむ発見だった。遠くにみえても目的地はすぐそこにある。言葉でいえば浅薄な教えも、足で見出すと深く響くものだ。  
これは上のこのあたりの展示に足を運ぶこと(📖『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎 訳(左右社)#61ae21e9eff4c000003020a1)にも通じる。
身体にこそ現実の領分があるとすれば、目だけで読むことにではなく、足で読むことに現実はある。
#からだとこころ
迷路や迷宮の歴史家W・H・マシューズは、迷路のそもそもの使途を明らかにした文献はみつかっていないと指摘するが、それが巡礼の行程を教会の床面積に圧縮したもので、道筋の曲りくねりは霊的修養を積むことの難しさを表しているという説はひろく信じられている。
迷路といえばミノタウルスだし、どうしてもミヒャエル・エンデを思い出す。(『鏡の中鏡』)
スカンジナビアでは地面に石を並べてつくられた迷宮が五百ちかく知られている。大漁と風を味方につけるための願掛けとして、海に出る前にこれらの迷路を歩くという習慣が二十世紀まで漁師に残っていた。
https://djanimateurfinistere.com/wiki/Turf_maze ←このサイトによると、
荒天時に漁師によって建てられ、邪悪な霊「スマグバー」または「小さな人々」を閉じ込めるために、漁師たちは迷宮の中心まで歩いて行き、精霊たちに彼らに従うように誘い、そして走り出して海に出ました。
とのこと。
祈りとか信仰に関することで、何かそのミニチュア版を経験することでそれを「成し遂げたことにする」みたいなのは多いな。仏教の回すとお経を読んだことになる摩尼車もそう。
教会の中(もしくは庭にもある)の壁画や彫刻の間をそぞろ歩くだけで、その神話をたどってゆくことになるというのも。
そういえば教会は「本」であるという説の動画が面白かった、あれはどこで見たんだっけ。いや、ユーゴーだったか……。
#あとで
歩くことと読むことが融けあう舞台はほかにもたくさんある。教会につくられる迷宮の世俗のバージョンとして庭園迷路があるように、十字架の道行きを「読む」ことには、世俗でいえば彫刻庭園という舞台がある。
書かれたものが不在の誰かの言葉を読ませるように、道はそこにいない誰かの行路を辿らせる。道々はかつて通りすぎた者たちの記録であり、それをたどるということは、もうそこにはいない者を追ってゆくことなのだ。
書くとは想像力の大地に新しい小径を刻み、あるいは、通い慣れた道で新しい発見を指し示すことなのだ。
歩くことと語ること
アボリジニのソングラインのことを考えるといつも『華氏451度』のことを連想する。
歩くことはさまざまな記憶をひそやかにつなげてゆく糸である
歩くという体の動き、移動がどうして記憶を引き出すのか。(…ということが書いてある本なのだけれど私としての実感は??)
その次に、あるかないことで自分の頭の中でものごとを考えすぎて人間嫌いになったり不機嫌になったりしてその才能を活かしきれなかったバイロンの記述もある。
#読んでいる本
#読書メモ