『Self-Reference ENGINE』
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円城塔の第1長篇
円城塔のデビュー作その1
連作短編集形式
円城塔お得意の形式
ディファレンス・エンジンが立ち上がる様を自ら記述したのが「解説」 『虐殺器官』と同様に、大きな嘘(しかも一目で嘘とわかるような嘘)が置かれていて、これを嘘と見抜けないと最後の最後でテクストが主張する結論と逆の結論に至るような構造になっている
嘘である部分とは、「Writing」冒頭の、「全ての可能な文字列。全ての本はそこに含まれている。」という命題。これは素朴に読むと真であるかのように思われるが、これはゲーデルの第一不完全性定理と同じ構造を持つ命題であり、不完全性定理の主張より、これは偽である。 「P, but I don't believe that P」のPは命題(Proposition)であり、ここで命題Pとは「全ての可能な文字列。全ての本はそこに含まれている。」である。円城塔がここで主張しているのは、”命題Pによれば求めたい本は既に存在しているらしいけど、そんなことは信じられない”ということ。
ちなみに、文庫版に収録されている佐々木敦による解説は概ね正しいが、致命的な誤りが2点存在する。 1. p.385「「私」こそは、「私」だけが、ここに存在しているのだ。完全に機械的に、かつ決定論的に。」
2. p.365「物理学や数学、或いは論理学などの知識が乏しいと、その面白さを真の意味では理解出来ない、というような通念が蔓延しているような気がするのだが、それはまったくもって浅薄な誤解である。」
1について。『SRE』は、自由意志を完全に否定する。『SRE』が「私」に関する物語であるという認識、および道中の読解はかなり正確であるのだが、それらの議論の前提条件を論理学的・数学的・物理学的に誤解していることで、前提と最終的な結論の双方が作者の想定とは逆になってしまっている。(実際、各作品レベルの読解の精度は非常に高く、論理学的・数学的・物理学的に最終的な答えを知っており、かつ最終的な答えが自然に導き出されるように読みながら読解を修正していった私の読みと比較してもほとんどの部分が一致した。数理科学の知識を利用したチート的読解に、いわゆる文芸的な読みでここまで精度良く接近出来るものなのかと心底驚いた)
2について。1のような間違いを起こしてしまった原因は、佐々木敦がゲーデルの不完全性定理を理解していなかったこと、およびいわゆる文芸的な読みに引っ張られて私小説として『SRE』を解釈してしまったことにある。 少々辛辣な指摘をするとすれば、「数理科学を理解していないのに、それらの知識を使わずとも理解出来ると主張出来るはずがないのでは」
「数学とか物理学とかを知ってないと正しく解釈出来ない物語なんて反則じゃないか」という批判に対して、以下のようにあらかじめ反論を述べておく
本作で用いられている数学的事実・物理学的事実、特に第一不完全性定理は90年も前に発見された既知の数学的事実である。(人類の持ちうる知的成果を芸術に用いて何が悪い)
最初期筒井康隆とかはもろにフロイト心理学に基づいた創作をしてるし、それこそ量子力学に基づいた作品なんか、不完全性定理の発見と量子力学の構築(1930年ごろ)は大体同時期なので、同じくらい反則ということになる
サルトル『嘔吐』とかどうするのさ
『虐殺器官』のように登場人物がボードリヤールの著書の内容を知ったかぶりしてることに気づけないと作中の仕掛けが十全に理解出来ない作品の方がよっぽど反則だと思う
そもそも、文学テクストの正しい解釈というものは存在しない。文学テクストは発表された時点で作者の手を離れ、全ての可能な読みを許す。
こういうような、読みの自由性とかを考えるのが円城塔作品の主題だというのに
とはいえ、明らかに数学的・物理学的・論理学的な議論をしているのに、それをポストモダン風の剽窃的読解で雑に読解するのは違うと思う
『SRE』をはじめ、円城塔作品を多くの人が誤解してしまう理由として、円城塔作品がいわゆる“私小説”としても解釈可能なことが挙げられると思う。もちろん私小説としての読解が確かに成り立っていることから、私小説として円城塔作品を解釈することが明確に誤っているわけではないのだが、なまじ私小説として読めてしまうが故に、その源流がどこにあるのかを見失ってしまう原因にもなっていると思う。
加藤夢三『合理的なものの詩学』や佐々木敦による評論、そしてネット上の感想や書評を読んでいると、円城塔作品、特に『SRE』を「私」を主題とした「私小説」であるとして解釈している事例が多いことに気づく。確かにこのような解釈は数学的な誤解を含まない範囲で確かに成り立っている。逆に、いわゆる“文芸的”な読解によって私小説として『SRE』を理解しようとしたとき、どうしても数学的な部分で致命的な誤解を生じてしまう。 この致命的な誤解は、『SRE』をはじめとした円城塔作品が、確かに「私」を扱ってはいるものの、その方法論がいわゆる近代的自我の獲得を素朴に記述するようなものではなく、数理科学的に厳密なアプローチによって扱おうとしているという差異によって生じている。
つまり、円城塔は数理科学的に厳密に「私」にアプローチしているのだが、その結果としての作品が、いかにも漱石以来の近代文学の流れにあるように見えてしまい、本来なら数理科学的に厳密にアプローチしなければいけないところを文芸的に素朴にアプローチしてしまい、軒並み致命的な誤解をしてしまっている。(円城塔は、近代的自我、ひいては自由意志を否定している。これは近代的自我を獲得する過程を描くいわゆる近代文学とは真逆の結論であるはず)
作品同士の関連性については、円城塔本人がデビュー直後の京フェス(2007)で紹介したmapと『SRE』英語版に収録されたmapで説明されてはいる
ただ、前者は文庫版で追加された「Bobby Socks」と「Coming Soon」への言及がなく、また後者と食い違う記述が見られる
これは本人に聞かないとわからないやつ(なぜ食い違っている?/英語版のmapを提供したのは誰?)
いわゆるメタネタは(意識的には)使用していないとの証言がある(先述の京フェス2007スライドより) 自己言及は同じクラスでしか有効でない。メタ階層を設定した瞬間に、自己言及ではなくなる
つまり、メタだと見えているとしたら、それは自己言及を理解出来ていない明白な証拠