ネタや方法は願いや思いが根底にあってこそのもの
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学部2年生の授業。
自分の「好き、こだわり、強み」の中から、一生懸命絞り出して授業を考案してくるのだけれど、それがまた、いい。
授業もそうだけれど、最後の最後に、授業者が「どうしてこのような授業を考えたのか」「この授業にかけた熱い思い」を最後に全員の前で語ってもらうときが一番楽しみです。
試験3日前あたりに、「追い込まれている自分」状態が大好きという授業者。
自分の中で、一生懸命考えて「追い込まれる感覚を味わえるゲーム」を考えてきた。
で、そのゲームそのものもそうだけれど、「追い込まれた状況から脱出して、自分自身にご褒美をあげたときの感覚がとってもいい」というところまで学習者に味わってほしくて、ゲーム後の「ご褒美」を用意しておいた。
そのことについて、「後話」でみんなに語る。なるほど、それにはそういう意味があったのね、とその時知る。感じる。
そうなった瞬間、単なる「ゲームの後の商品」という扱いではない「価値」が生じる。
フレームだけを切り取って、それおもしろかったから真似してみよう(追試してみよう)というのとはやはり別次元なんですよね。
「ただのネタ」「ただの方法」「ただのアクティビティ」ではなくなります。
「今」の学生に寄り添える時間、とっても貴重ですてきだわ〜。