AIと向き合う
AIを使うということ自体が質感になっていたりAIっぽさがあると対象として捉えることができるのは今しかないかもしれない。
初期CGの不気味なツルツル感がヴェイパーウェイブの質感として捉えられるように、初期ボーカロイドの機械音、デジカメ黎明期ののノイズ感などのように後にその時代を象徴する質感になる。技術と作家性が模索している段階は後の時代には作れない、もしくはその質感を再現する流れになるだろう。
AIが積極的に使われている作品
今、AIで作った先のものよりもAIで作ったことそれ自体にフォーカスが行きがちだ。
AIで作った事自体が意味を持っている段階にある
すでにAI動画というだけでは何の差別化にもなっていない。誰もが似たようなものを作れてしまっている。
むしろAIは誰もが作れるので誰が作ったかわからない。
ただ素性を明かさないという匿名性というよりは素性がそもそもないという匿名性がある
例えば匿名の作家でも、ファンが多いものは存在する(バンクシーとか)
でもこれは素性がどこかにあるとわかっているから、あくまで名前を隠しているだけである。
しかしAIはそもそも素性そのものがないため、作者のプロンプトに対してランダムに反応したものに個性を見出すことが難しい。
そのためバンクシー作品はバンクシーが作ったとわかるが、AI作品を見ただけではあーあの人ねとはならない。
けどAIの作品かどうかは現状わかる。
あくまで作者はAIで、プロンプトを書いた人の素性はわからない。
匿名性がある結果とも言えるので匿名性の高さとドキュメンタリー性のなさは同義だと思う。
AIは絵柄を真似することはできるが、本人の歴史・ドキュメンタリー性や新しいスタイルを作れるわけではない
Joanna Zylinska(キングス・カレッジ・ロンドン教授)
『AI Art: Machine Visions and Warped Dreams』
第9章 "Undigital Photography"(pp.105-116)
Tokyo Art Beat連載「クリティカル・シーイング」第4回「画像生成AIに作れない作品とは何か——絵画は時間でできている」
絵画作品には、大まかに「表象されている時間」、「制作された時間」、「鑑賞する時間」の3つの時間が存在する。ただし、この3種類の時間が完全に分離している状態では、作品は作品として成立しない。言い方を換えれば、鑑賞者のなかで、作品が経験されたことにならない。これらの時間が、和音的に一体化する、あるいは相互に干渉や混同を引き起こすことで、初めて作品は作品として経験される。もう少し噛み砕こう。鑑賞者が美術館で絵画を見ているとき、それは描かれたイメージのみならず、物質の痕跡を通して「描かれた時間」の推測や体験をしている。
問題の本質は画像生成AIの優秀さにあるのではない。画家の仕事や作品がAIに取って代わられることでもない。ここでの危機とは、「時間的に触診する」眼の能力の退化にある。クレーが述べた眼の反応は、構造的で普遍的なものと解釈できる。しかし、その眼の反応を能力として考えると、普遍的なものではなく、印象や経験の積み重ねによって生まれるもので、そういう経験がなくなるとその能力は簡単に退化する。
ベルクソンは、クレーと同様に、イメージの生成において、時間を切り離して考えることも、付属的なものとして見ることもできず、「発明の時間は、発明そのものと一体になっている」と論じている(ここで「もはや」という過去と現在を切り分ける副詞を用いていることは示唆的である)。つまり、イメージの発明的創造において、創造されていくプロセスの時間は、切り離して考えることができない。
私たちは、時間を味わうものとして絵画をとらえられなくなってきているのではないだろうか。作品を時間的に触診しようとする眼を持たない人にとっては、AIが描いたものと人間が描いたものの差は存在しないし、ベルクソンがいう「発明」も認識することはできない。
① 絵には3種類の時間がある
描かれてる時間(絵の中の場面の時間)
作られた時間(画家が描いてた時間)
見てる時間(鑑賞者が眺めてる時間)
この3つが混ざることで初めて作品を体験している。
人間の目は、絵を見るとき無意識に筆跡を追って"なぞって"いる。「時間的に触診する」
②AIで人間の"目の能力"が退化する
AIがうまい絵を作ること自体は問題じゃなくて、問題は「筆跡から時間を読み取る目」が衰えること。
この目が衰えると過去の絵(印象派とか)すら理解できなくなる→歴史を理解する力も落ちる。
③時間接地問題
記号接地問題=AIは言葉を流暢に並べられても、その言葉の"意味"を体で理解してるわけじゃない(身体経験がないから)
言葉だけで言葉の意味は学べるの?
例えば、中国語を一文字も知らない状態で、中国語辞書だけ渡されたとする。ある漢字を引くと、別の漢字で説明が書いてある。その説明の漢字をまた引くと、さらに別の漢字…って永遠にループするだけで、いつまでたっても「実際に何を指してるか」にたどり着かない。記号が記号を指してるだけで、現実につながってない。
これが記号接地問題。記号(言葉)の意味は、記号同士をいくらこね回しても出てこなくて、最終的には現実世界のモノや経験と結びつかないと「接地(grounding)」しないという指摘。
人間がリンゴを理解している時
赤くてつやつやした見た目を見たことがある
かじったときのシャクッて食感を知ってる
匂いを嗅いだことがある
LLMは、膨大なテキストから「リンゴの次には『赤い』とか『食べる』って単語が来やすい」っていう統計的なパターンを学んでいる。
でも、それは記号と記号の関係を処理してるだけで、リンゴそのものを見たり食べたりしたわけではない。(経験しているわけではない)
だから「本当に意味をわかってるわけじゃない」っていうのが、記号接地問題の視点からの批判。
時間接地問題=同じくAIは時間を計測はできても、流れとして"体験"できない
記号接地問題を時間接地問題としても捉えてみる。
ベルクソンによれば時間は2つの側面がある
計測される時間:時計が刻む「10時15分」とか「3秒経過」のような、数字で表せる客観的な量。
体験される時間:実際に私が生きて感じてる時間の流れ。退屈だと長く感じるし、楽しいと一瞬で過ぎる主観的な質感。ベルクソンはこれを「持続(durée)」と呼んだ。
この2つは別々じゃなくて、体験される時間(持続)のほうが、計測される時間を成り立たせてる土台になってる
書道家が一筆を引くときに感じてる「いまこの瞬間、墨がにじんでいく」みたいな質的な時間感覚は身体があって、その場の手応えにリアルタイムで反応してるから生まれる。手書きロボットは同じ文字を書けても、その時間の質感はゼロ。ただ入力どおり出力してるだけ。これが「AIには時間が接地しない」とされる。
⑤ AIは「未完成」を作れない
AIが出す絵は必ず「完成して閉じた一枚」であること。AI自身が「これは未完成だ」と判断はできない。
人間は「あえてここで止める」っていう主体的な判断ができる。
セザンヌの塗り残しだらけの絵
わざと顔を塗り残した肖像画
ニューマンいわく、どこで止めるかは「倫理的な決断」。AIにはこの倫理的判断=主体性がないと批判している。
AIに対して気持ち悪さを感じる人もいる。(以下は知り合いのコメント)
イラストがなんか不気味に感じる、AI独特みたいな
最近生成AIをビジネスにっていうのよく見るけど
なかなか受け付けるのむずかしい
怖いねんあれ
絵描いてる人間に受け入れられるのはもう不可能やで
怖いっていうのは、クリエイターの立場がなくなるかも的な?
違う
作品の質感自体に嫌悪感があるようだ
AIが、人間が描いたように作ってる風?にするのが嫌悪感あるんかな
よく考えたら、AIが作ったASMRとか結構好きやわ
明らかにAIが作ったっていうのを飲み込んで見ると、なんかテクノロジー感じてええなぁ、と思ってまう
逆にAIが作ったってことを隠して、違和感のある手書き感を出されると、不気味の谷の気持ちになる
多分やけど、絵としての不自然が前面に出てるんやけどそれ以前に作り手としての姿勢が不誠実に感じててそこから嫌悪感に繋がってるんちゃうかなって思う
不誠実とは?
1つ目は労力の偽装に対する不公平感。「人間が手間暇かけた」という前提で評価される土俵に、機械が10秒で作ったものが同じ顔で並んでくる。誠実に何時間も向き合ってる人が相対的に損をする構造への怒り。
逆に言えば、手間ひまかけた=評価されなければならないと思っている?
すごいものを作ろうとする=結果的に手間がかかるという構図がこれまで多いから、手間をかけずにすごいものに違和感を感じるからでは
そして手間をかけるとかならずすごいものになるとは限らない。
すごいとは?=クオリティ?
思い?個性?
なぜ人は、生成AIを使用した創作物に対して身構えてしまうのだろうか。中央大学文学部(心理学専攻)の有賀敦紀教授に話を聞いた。「漫画や小説を読む場合、作品そのものだけではなく、作り手がどういう思いを込めてるかといった部分も含めて楽しんでいる人が多いのだと思います。その点生成AIが作った創作物となると、作り手の思いが込められていない、つまり人の手がかかっておらず、“手抜き”をしているように感じられてしまう。たとえば料理にしても、電子レンジで温めただけのものよりも、その場で作ったものの方が、なんだかおいしく感じることがあるかと思います。そのような心理に近いのではないでしょうか。仮にまったく同じ作品であっても、“AIが作ったもの”として提示されるよりも、“人が作ったもの”として提示された方が楽しめるという人が多いというのはそういうこと。“作り手が込めた思い”や“作り手の個性”を含めたうえで、作品を評価するという考えが一般的なのだと思います」(有賀敦紀教授=以下同)
2つ目は学習データの問題。AIは無数の人間の作品を学習してる。だから「私が作りました」と言い切ることは、見えない無数の貢献者を消去することでもある。
けれど人間がリファレンスをもとに作るのと何が違うのだろうか?
人間が前例を集めて新しいものを作る創造性とAIのアルゴリズム上の乱数に違いはあるだろうか?
その人自身の癖が入りにくいというのがあるのでは?
https://scrapbox.io/files/6a049d0d5c3c134ed434feb3.jpg
AIと著作権法