イジメ
イジメる側を主体、イジメられる側を客体、それ以外の周りの人は傍観者と呼ぶことにする
イジメる側を加害者、イジメられる側を被害者と呼ぶとイジメる側が一方的に不利なイメージを植え付けられるため
正確には主体は客体をイジメていないと思っており、かつ、客体も主体にイジメられていないということもありうる
そうなるとイジメるという動詞もふさわしくないが、とりあえずわかりやすさのためにイジメるという動詞にする
用語
愚かである: 真実ではないことを信じている
知っている: 真実を信じている
悪意がある: 真実を知った上で真実と異なる言動をする
害意: 客体の精神を害する意図
イジメは主体・客体・傍観者のうちいずれかの愚かさないしは悪意によって発生する
構図的にイジメのような状態であってもイジメに当たらない場合が存在する
イジメではないので主体の行為をイジりとしよう
もっと言うと、ある方法 X でイジる場合
主体は「主体が客体を X でイジっても客体は何とも思っていない」と信じている
なので主体に客体を害する意図はない
客体は本当に何とも思っていない
その上「主体が客体のことを害する意図はない」と信じている
傍観者は「主体が客体を害する意図はない」ことを信じている
「主体が客体を X でイジっても客体は何とも思っていない」と信じている
主体・客体・傍観者は愚かではない
主体・客体・傍観者は真実を知っているが、悪意はない
客体が精神的苦痛を受けている場合
主体は「主体が客体を X でイジっても客体は何とも思っていない」と信じている
なので主体に客体を害する意図はない
客体の反応を受けてもなおこの信念を主体が変えない場合、主体は愚かである
この上で主体が行為 X を止めない場合、イジメになる
このとき客体が「主体に客体を害する意図がある」と推測することもある
この場合は客体も愚かになる
客体に被害妄想癖がある場合を分類分けしたい
客体は「主体に客体を害する意図がある」と勘違いしている
客体は行為 X により傷ついている
主体は「主体が客体を X でイジっても客体は何とも思っていない」と信じている
なので主体に客体を害する意図はない
このとき主体も客体も愚かであることは変わらないのだが
特に行為 X が一般的にイジメに当たらない場合は客体の方がより愚かに思える
(X = 口の悪い話し方) が一般的に行われるコミュニティにおいて
コミュニティの新入りである客体が「コミュニティのメンバである主体の X という行為」に勝手に害意を見出している
特に後に学習等によって客体が行為 X がイジメではないことを知る場合
明確に客体が愚かであった
Summer498.iconは義務教育の頃は被害妄想癖のある客体だった
だからこのケースを主体が愚かなだけのケースと分けたいのかもしれない
客体が精神的苦痛を受けていない場合
主体は「主体が客体を X でイジっても客体は何とも思っていない」と信じている
なので主体に客体を害する意図はない
客体は本当に何とも思っていない
その上「主体が客体のことを害する意図はない」と信じている
この時点ではイジメでも何でもない
傍観者が勝手に主体の行為 X に害意を見出した場合
傍観者は愚かである
愚かな傍観者が主体を糾弾した場合、主体はイジメの主体とみなされているがゆえに反論できない
いかなる反論も客体の内心に関するものであるため真実性を示せない
主体が客体の内心を確認しても、主体が客体に「主体にとって都合の良い内容を言わせた」と思われる
客体が自発的に行為 X がイジメではないことを言っても、主体に言わされている可能性を排除できない
別の傍観者が主体の無実性を主張しても、主体に言わされている、ないしは主体の仲間である可能性を排除できない
そもそも、そんな事はありうるのか?
思考実験をすることは可能
https://www.youtube.com/watch?v=TXCpnuwYBqY
この場合は執行権を持つ傍観者が害意を見出しているためより悪質
愚かさの部分を悪意に置き換えても同様に主体が客体をイジメている状況が発生する
特に客体が悪意を持って主体の行為 X による精神的被害を主張すると通りやすいように思う
体感
主体側に回るとこれはイジりとして大丈夫だろうというラインを見極めてやることになる
結構技術力がいりそう
過去ログを読んだりして多分これぐらいは大丈夫だと踏んでやってる
本当に嫌そうなら止める気満々
客体が問題に思っていないなら、クリア
と思いきや第三者が何か言い出す
ここでやるせなさが発生する
第三者のヒヤヒヤを想定できなかった主体の落ち度と言えばそう
でもなんかちゃうんちゃう?
何で第三者を想定する必要が?
それって第三者の感想ですよね?
お互いが合意していても悪い関係/悪いこと、ってあるよな biwa.icon
当事者と第三者の関係の良し悪しってエッジケースを色々考えられて面白いな
確かに宗教に搾取されてる人の話は止めるべき感が強い
搾取する主体は利益を得ている
搾取される客体はこれが良いと思っている
実際は客体が損害を被っているから被害を食い止めるため第三者は止めるべき
客体がこれにより経済的・肉体的・精神的に被害を受けると想定される場合……(1)
客体が主体に命じられて第三者に害をなす可能性がある場合
本当に単に幸せになってる場合は止めなくて良いのでは
ここから人の発言をダシにした別の話
逆に当事者が別に良いと思っているのに問題視する人に問題にされる場合もある 問題視する人が勝手に問題にする行為は正義の皮を被った邪悪に見えるな 加害者と認定された人をどれだけイジメても問題ないと考える人が存在するので
認定加害者を糾弾する行為が正義っぽく映るので
ひらめいた
問題視する人の振る舞いが納得できないケースってこうじゃないか? 主体と客体の間で問題・被害は発生していない
(1) には当たらないのでは
問題視する人が勝手に(嫌な思いをした|トラウマを思い出した|正義感に燃えた) 問題視する人が行為 X は悪い行為だから止めるように言う、主体を糾弾する、ないしは客体を庇う 「私 (問題視する人) はその行為 X が悪い行為だと思う」と表明するくらいがいい どうしても過去にイジメの客体として振る舞った経験からイジりの主体を守りたくなるな
イジメの客体として振る舞うと
執行者のもとに駆け込めば虎の威を借る狐ができる
認定加害者 (主体のこと) を一方的に糾弾することが可能
これがヤバい