試論: デジタル・アジールの模索を読む
こういう場で、「嫌だ」「不快だ」という私的な感情の表明をするだけの行為は私的な側面を強く帯びすぎる。
この表現だと、実際は単に嫌だ不快だというだけのことを、あたかも公共性があるかのように言い張る行為を正当化することにならないか?Summer498.icon
と思ったら、そもそもその方向性で行く感じのようだ
他者が納得すると思われる公共的な理由(私的な理由ではなく)へと、自己の私的な感情を翻訳し、世界性を共同構築する義務を負うのではないか。 文章での声の大きさは公共度合いや公共性を装う度合いだと私が何となく思っているだけかも。
脱線.icon文章を推敲することで、「本心ではただ嫌なだけのことを、あたかも公共性があるかのように整えている人」と「本心では公共性があると信じているが、あたかも私的な感情を理由としているかのように整えている人」が居るだろう。Summer498.icon
前者は X とかで……、 いや、X じゃなくても割とよく見るか。ニュース系の記事とか。
後者は少なくとも私(N=1)で、前者に嫌気が差して反動でそうなっているフシがある。
action って何だろう。
actionを伴わない表明は、他者を対等な人間としてではなく、「ケアの対象」と貶めかねない、複数性に対する道徳的に不十分な行いと思われる。 「ケアの対象」と貶めとは、ダイレクトに言ったものだ。Summer498.icon
何となく心の中に思っていたことを言語化されているので、何となく言いづらいことをよく言ったという感想。
確かにケアというのは思いやりのようで対等性を損なうし、若干侮蔑的な意味で「要介護要員」という言葉が使われたりする。
ごめんなさい。まだ本文がありません。
草.iconSummer498.icon
リンク先はなかったが、直後にほぼ action の説明になっていそうな部分がある。
アーレントの視点に立てば、公的領域に現れることは、自身の「誰であるか」を言葉と行為によって示すこと: action 単なる「嫌だ」だけの表明は労働の域を出ず、世界を構成しない 逆説的にこれらは思索を他者に侵食され難い「修辞の壁」を備えた世界の一部となって、安易な介入を許さない「現れ」の作法となる
言葉と行為のうちの「行為」の方かな。
手の動かしようがない主張はどうするんだろう。Summer498.icon
〇〇やめろみたいな。
〇〇をするのは手を動かせるけど〇〇をやめる・やめさせるのは手を動かすのは難しい。
表現の役割かも
難しいというか、迷惑行為になる。
イルカ漁を止めさせるための活動みたいな。
若干感じる「何に困っていますか?配慮できることがあるかもしれません。詳しくお聞かせ下さい」に類する言動に対する嫌悪が言語化されているような。Summer498.icon
こことか
actionを伴わない表明は、他者を対等な人間としてではなく、「ケアの対象」と貶めかねない、複数性に対する道徳的に不十分な行いと思われる。 こことか
正統性(legitimacy)を調達しない決定や配慮(つまり「嫌だ」と思われる行為を改めること)は、相手を「宥める対象」として扱うパターナリズムを含んでしまう とはいえ過ちの指摘に基準を作れない
「思索の邪魔」を他者に許さないのであれば、私的な空間において現れのための修辞(武装)を整えてからパブリックな場に臨むべきである 色々な視点からでも成立する言葉選びでとても良い。中立的というか。Summer498.icon
邪魔をされた
邪魔をしたことにされた
間違ってるからツッコんでいる
おかしいからツッコんでいる
間違ってるからツッコまれた
おかしいからツッコまれた
みたいな色々な前提で読んでみても、「「邪魔」と「ツッコミ」の違いは他者とは正確に共有できない」は成立するから上手い表現だと思う。
例えば、思考速度が遅い人と、速い人とのコミュニケーションで速い人の方が「変だ」と気付いてツッコミを入れると遅い人のほうが邪魔をされたと主張することがある。
速い人にとってはそういう意図・認識がなく、酷い言い掛かりをつけられているとまで感じることがあり得る。
A が邪魔をしているのではなく、 B の思考速度が遅いだけと言ってしまうと B への侮蔑的な表現になるのでどう表現したものかといったところだが、
「他者とは正確に共有できない」だとどの視点でも成立するから良い
(でも自分が内心を吐露して良さを台無しにしている)