ボードゲームのガラスの天井
いくつかの例外を除いて、ボードゲームにはよく見られるテーマがあります。
すなわち:
戦争、戦闘、戦い
征服、支配
モンスターの討伐
近年、植民地支配や奴隷などのテーマが、より中立的なものへ修正する動きがあります。
一部のテーマでこうした「正しい」とされる修正が進む一方で、「戦争」「征服」「モンスター討伐」といった特定の価値観に根差しがテーマが、未だ市場の多数を占めるのが現状かと思います。
なお日本のインディーボードゲームシーンのように、極めて多様で実験的な作品が毎年数多く生まれている例外的な文化圏も存在しますが、より大きな商業的文脈に目を向ければ、このテーマの偏りは依然として顕著かと思います。
ゲームという文化領域には男性性がある。
遊び手も、作り手も、レビュアーも。
その男性的な視点が、あたかも中立で普遍的で標準であるかのように扱われる構造が生まれる。
もちろん趣味としてのボードゲームの源流の一つは、プロイセンの戦争演習 Kriegsspiel に端を発するウォーゲームの系譜ですし、チェスや囲碁といった古典もまた戦争をメタファとしています。 ボードゲームの文化的なDNAには、そもそも「競争」や「闘争」が深く刻み込まれている、という歴史的背景には留意せねばならないでしょう。
ただ、「戦争」とまで行かずとも、たとえば「経済競争」は、無標 unmarked のカテゴリに属する一方で、「ケア」「共感」「恋愛」といったテーマのボードゲームは、「女性向け」「特殊」「テーマが強い」といったふうに有標 marked なものとして周縁化されがちです。
なおそんな「標準」や「歴史的な流れ」から外れたゲームを、市場におけるリスクと捉えて、出版に及び腰であることも理解できはします。
とはいえ、なぜ「戦い」のテーマがこれほどまで支配的なのでしょうか。
たとえば、男性に「超越 transcendance」を、女性に「内在 immanence」へと割り振った二重の文化構造を指摘したのがボーヴォワールでした『第二の性』。 その根源は、西洋社会の根深いジェンダー構造です。
彼女によれば、男性は、「世界を意味づける『主体』」として生の危険を賭してでも目標を達成しようとする「超越」的存在として、自己を定義します。
一方で女性は、その「主体」に対する「他者」として、生の維持や反復といった「内在性」のうちに留め置かれる、と。
さらにベティ・フリーダンは、『女らしさの神話』として女性たちの「良き妻、良き母」として家庭という「内在性」に閉じ込められ、アイデンティティの危機に苦しんでいることを暴き出しています。 この構図を用いてボードゲームを語るならば、「戦争」「征服」「探検」といったテーマは、まさに「超越」を目指す「主体的=男性的」な自己実現モデルを、遊びという形で反復あるいは学習するための絶好の舞台装置となるでしょう。 これは、女性を家庭へ押し込めてきた現実社会の性別役割分業と地続きの、文化的実践と言えてしまうかもしれません。
ボードゲームが今以上に、多様で豊かなの文化であるために、単にテーマの「正しくなさ」とか「不快さ」を取り除くだけでは不十分だと思うのです。
現状「標準」と語られるテーマやルールやシステムを問い直し、もっとラディカルなボードゲームが生まれてくる土壌は既に準備されていると思います。
新しい勝利条件、あるいはむしろ勝利概念の解体、また、自己充足的なコミュニケーションなどを「中心」に据えたゲームを、私は「主流」とか「標準」とそろそろまなざす時代なのだと思っています。