「長考」は悪いこと?
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ボードゲームのプレイ中、あるいは、ボードゲームについて語るとき、私たちはしばしばマナーの言説と出会います。
過度な長考は良くない。
口三味線はフェアではない。
協力ゲームでの奉行(アルファプレイヤー)は、楽しみを奪う。
私たちは、これらの行為を、ほとんど直感的に「悪い」ことだと判断しがちかもしれません。
しかし、その「悪さ」の正体は、一体何なのでしょう?
以下では、私たちの道徳的判断に関する哲学的立場を比べてみたいと思います。
道徳的実在論+一般主義の立場
例えば長考に関してであれば、「長考は、ゲームのテンポを阻害するという点で、客観的に、そして常に悪い」というふうに考える。
この考えの背後にあるのは、道徳的価値は個人の感情や状況によらない普遍的な事実だとする道徳的実在論と、信頼できる道徳原理(例えば「他者の時間は尊重すべき」など)が存在しているという道徳的一般主義です。
この立場からすれば、マナーとは、客観的な「悪いこと」を避けるための、誰もが従うべき普遍的なルールと考えるでしょう。
反実在論
「長考の善悪は、絶対的なものではない」と考える立場です。
同じ時間の「長考」であって、ある状況であればむしろ「善いこと」であり、また別のある状況では「悪いこと」ともなる。
この考えでは、道徳的価値が客観的に存在するのではなくて、私たちの主観的な態度や、その場に構成されている社会的文脈によって決まるとする反実在論(非認知主義)的な立場です。
「長考は迷惑である」という判断は、客観的事実の記述なのではなく、「私はこの遅延を不快に思う」という感情の表出に過ぎないのかもしれないということ。
この考え方を突き詰めていくと、「その場の空気が許すのであれば『なんでもあり』という、一種の相対主義に行き着く危険性を含んでいます。
道徳的特殊主義(パティキュラリズム)
ダンシーは、パティキュラリズムを提示しました。
彼によれば、ある行為の善悪を決めるのは、普遍的なルールでも、主観的な感情でもない。
それは、その特定の文脈に存在する、客観的な「理由の形」
医者が、ある患者の個別的な症状(文脈)を総合的に判断して、最適な治療方法を決定するように、熟練した(そして有徳な)プレイヤーは、
会の残り時間
各プレイヤーの思考、状況、感情
主催者のコンセプト
といった、そこにある無数の事柄を繊細に「認識」するわけです。
この認識に基づいて、「この局面での長考は、彼/彼女にとっては勝利のために時間をかけるに値する理由がある」あるいは「この局面での長考には、全体を停滞させるだけで、どのような理由もない」などの判断へと至ります。
ダンシーのパティキュラリズムは、ある側面では、有徳とされる人物が持つとされる「道徳的視力」を要求します。
規範倫理的に考えれば、それは功利主義とカント義務論をそれぞれに橋渡しするようなアリストテレス的徳倫理学があると思われます。
いずれにせよ、他者に対してどのような配慮が、いまここでは「善いこと」あるいは「悪いこと」なのか、十分に検討したり、他者と考えを聞き合ったりすることの大切さを、ダンシーは教えてくれているようにも思います。
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