「分類」はどんなツールか?
ボードゲームを語る際、まずメカニクスを口にしがちです。
ワカプレ
デッキビルティング
オークション
等々、メカニクスによる分類は、ゲーム理解のための便利な共通言語です。
「分類」とは、対象をコントロールするための権力作用
——というフーコーの分析。
彼は、精神医学や監獄誕生の歴史を通じて、「分類する」という行為が、単なる整理作業ではなく、対象を統制し規格化するための権力作用であることを暴き出しました。
ある人間を(正常ではない abnormal)「狂人」として分類することが、その人を社会から隔離し管理することを正当化するように。
あるゲームを「ワカプレ」と分類することは、そのゲームを既存の評価軸の中に位置づけ、他の無数の「ワカプレ」ゲームと比較可能な、管理可能な対象へと変形させてしまっているかもしれません。
「分類」は、「類似」に変わって登場した「表象」としての知
フーコーが分析したエピステーメーの変遷
16世紀(ルネサンス期)は、「類似 Ressemblance / Similitude」の知の時代でした。
この時代、世界は神が記した巨大なテクストと理解されていました。そして人々にとっての「知の探究」とは、神が物事の間に隠した「しるし(シーニュ)」を読み解くことでした。
この「しるし」の最も重要な形態が、「類似」です。
例えば、植物の形とそれが癒す人体の部位の類似など。例えば:
「クルミの実は、硬い殻と中のシワシワの形状が、人間の頭蓋骨と脳に類似しているから、「クルミは、頭部の病に効くはずだ」と考えました。
「黄色い花を咲かせる植物は、黄疸に効く」とされたりしました。
現代の私たちからすれば、それは「非科学的」「呪術的」ですが、当時はこういった思考が、世界を理解するための知の枠組み(つまりエピステーメー)でした。
「グルームヘイヴンとアンドールの伝説は似ている。なぜなら、どちらもファンタジー世界で冒険するから。」というような感じでしょうか。
17–18世紀(古典主義時代)には「表象 Représentation」の知の時代へと変換がありました。
一覧表や系統樹によって、世界を記述しようとしました。
それは、Excelの表のようなものというよりかは、世界のあらゆる物事を、その同一性と差異性に従って、抜け漏れなく分類・整理し、一覧できるような、巨大な思考上の産物です。
ルネサンス期の知が、物事の間に隠された「類似」を次々と見つけ出し、世界を無限の注釈で覆い尽くそうとしたのに対し、古典主義時代の知は、その混沌とした世界に明晰な「秩序」を与えることを目指しました。
そのための方法が、「表象」です。手順は:
1. 分析する
複雑な対象を、その最も単純な要素にまで分解する。
2. 同一性と差異性を計測する
それらの要素が、何において同じで、何において異なるのかを、客観的な基準で計測したり比較したりする。
3. 秩序づける ordering
計測や比較の結果に基づき、すべての要素を規則に従って、テーブル(表)の上に配置する
例えば、リンネ式階層分類体系
リンネは、植物を見た目や効能といった曖昧な「類似」ではなく、「雄しべの数」という客観的で計測可能な指標を用いて、すべての植物を一つの巨大なマップの中に位置付けました。
フーコーによれば、こういった思考様式は、植物学だけでなく、博物学、文法学、経済学(富の分析)といった、当時のあらゆる知の領域に共通して見られる、支配的な「知の枠組み」でした。
「アグリコラとデューン 砂の惑星:インペリウムは、ワカプレという同じ分類項目にカテゴライズすることができる」とするのが、この思考様式です。
この「表象」という思考様式は、近代科学の精神そのものです。
リンネの植物分類学がそうであったように、客観的な指標で世界を分類・整理することで、知の共有と蓄積が爆発的に進みました。
「類似」から「表象」への転換の、人類への恩恵は計り知れないものでしょう。
他方、フーコーの指摘は、繰り返しとなりますが、この「表象」という秩序だった分類が、権力作用であることでした。
分類不能なゲームは、評価不能であるゲームとなりかねません。
分類だけによるゲームの理解は、「〇〇系は苦手だから」と、未知の体験の可能性を自ら閉ざすことにも、繋がりかねません。
ボードゲームのガラスの天井のような話にもなってきそうです。
例えば「『分類』を疑う」という態度
例えば、そこで表象されている(されてしまっている)メカニクスという構造(分類)の中心を疑い、あえてその周縁に目を凝らす、という戦略があるかもしれません。
Cosenseも、分類から逃れようとする戦略をとったシステムと言えるかと思います。
cf. /rakusai/Scrapboxは脱階層? なぜ文章内は階層なのか?
(Cosenseの旧称は、「Scrapbox」といいます。)
あるゲームを、「ワカプレ」という安定した構造(中心)で理解したつもりになっていたとしても、そのゲームの面白さは、しばしばその中心からずれていく「些細な例外ルール」や「フレーバーとメカニクスの強調関係」といった周縁的なところ(周縁と見えがちなところ)に宿っているかもしれません。
例えば、アグリコラの面白さは、ワカプレというメカニクス(構造)よりも、むしろ「苦しい食料のリソース管理」によって、その構造が常に歪められ、勝利点獲得のための計画が危機に晒され続けるという点にあるのかもしれません(同じ文脈で、カードドラフトの観点からも、きっと語ることができるでしょう)。
このように、中心と周縁、構造と構造によって規定される外部との、絶え間ない緊張関係の中に、固有の価値が立ち現れてくる、このような考え方は、デリダが脱構築と読んだテクスト読解の実践と非常に強く共鳴するでしょう。
現代においてゲームを語るとは、その分類を目指すことではなく、遊んだときの面白かった(あるいは面白くなかった)という経験に、まだ存在しない名前を与えることだと思います。
確かにメカニクスによる分類は、ボードゲーム全体の地図(バイヤール風にいうならば共有図書館)を解読するための便利なコンパスでしょう。
このコンパスをお守りに、地図や図書館にまだない豊かな風景に目を向けることも、局所的ないつも遊ぶメンバーだけが楽しめる新しい地図を作り出すこともまた、私たちには可能だと思います。
「分類」での言語を使いこなしながらも、常にその言語の限界を意識し、そのカテゴリからはみ出している何かを積極的に探してみるのも、ボードゲームの新たな魅力を発見することにつながるのではないでしょうか。
#📙_ボ哲コラム