最後に「目的」を手渡す
最後に「目的」を手渡す
自分で目標を設定し、自分にあった手段で努力ができるようになる、ということは自由を受け取る準備が整うということだと思っています。何をどのようにしてもいいという自由な空間は、裏を返すと、何をするかも、どのようにするかも自分で決めなければならない空間であるということです。自分が向かうべき(向かいたい)場所とそこに向かう方法を見いだせなければ、何も起こりません。そんな空間に何の知識も持たせないまま投げ込まれても困ってしまいますよね。だから、目的目標手段を手渡すべきだというお話をしてきました。
なぜこんなことをするかといえば「自由な空間での自分の体の動かし方を学び、自分が行きたいところに向かって確実に進めるような技術と自信を獲得するため」です。確実に進むために「他者の力を借りる」という技術は大変重要です。だからみんなが集まる学校で学ぶ意味があります。こういう事ができるようになるのが「けテぶれ」の「目的」。つまり、「自立した学習者になる」ということです。そう考えると、前述までの「手段と目標」を子どもたちが確実に受け取ることができた時点で、けテぶれの「目的」がある程度完了していることがわかります。ある程度、といったのは「学校の勉強」という文脈の中では、達成しているということです。今までの話の中で出てきた目標設定も、そこに向かう手段もすべて学校の勉強という文脈の中の内容でした。けテぶれを授業でも宿題でも徹底的に取り組んでいけば、3学期には一斉指導は全くしなくても単元の学びが完了してしまったり、自分たちで時間割を決められるようになったり、頼もしい姿に出会うこともあります。そういう状況になれば、「学校の勉強」という文脈の中ではけテぶれの目的が達成した、とみることができるでしょう。
そういう状態が見られれば、ひとつ子どもたちに挑戦してもらうことがあります。それが「完全に自由な1時間」への挑戦です。授業にはそれぞれ何らかの“目的”(とその目的に向かうための“目標”や“手段”)がありますよね。例えば算数の時間なら学習指導要領にかかれている算数の目的に向かうための時間であり、そのために単元の目標が設定され、ワークシートや授業を手段として子どもたちは目標に向かうわけです。
「完全に自由な1時間」とはその「授業」の構成要素が完全に取り払われた1時間のことです。教室の中で何をするのも、どこで誰と過ごすのも完全に自由。先生が言うのは「自由に過ごしなさい」の一言だけです。教室の「目的」から消してしまうことで、子どもたちは目的から自分で決めてその時間を過ごすことになります。なぜこれを子どもたちに言えるかといえば、子どもたちはこれまで「けテぶれ」によって、自分で自分の体を動かし、動かした結果を振り返って、次の一歩を考え、自分の心と体をコントロールできるようになっているから、ですね。自由に過ごしなさい、というだけなら簡単です。でも「自分」について何も学んでいない子にいきなり自由に過ごしなさいと言っても、なかなかうまく受け取ることができません。浅い自分の欲求に振り回され、やるべきでないことをやってしまうか、何をすればいいかわからず停止してしまうかのどちらかの状態になってしまいます。大人でも急に休みが与えられると、何をすればいいのかわからず、1日を無駄に過ごしてしまうことってありますよね。
でも「けテぶれ」を合言葉に自分について知り、徹底的に自分で自分を動かそうとしてきた子どもたちは違います。
教室で1時間、体育館で1時間やってみました。
僕が言ったのは一言「完全に自由です。好きに過ごしなさい」
友達と楽しくお喋りしている子、漢字ドリルを進めている子、社会の教科書をまとめている子、クラスの写真を撮っている子、算数の計算競争をしている子、「ありがとう」の意味について議論している子。読書をしている子。本の要約をやってみようとする子。カードゲームをする子、ベランダで日向ぼっこをしている子。
フラフープで遊んでいる子。ドッヂボールをしている子。バランスボールで遊んでいる子。フリスビーを投げ合っている子。バスケのミニゲームをしている子。リフティング対決をしている子。卓球をしている子。次々と遊びを変える子。一つの遊びをずっとする子。それがとてつもなく豊かな空間だったんです。その光景を見たとき、苫野一徳さんが掲げられている「自由の相互承認」とりあえずこの言葉が浮かびました。誰一人、誰かの自由を妨げる子はいませんでした。それとは反対に、他者の自由を面白がり、その遊びに参加したり、少し関わってまた戻ったり、真似してやってみたりと、有機的な離散集合がありました。
次に浮かんだ言葉は「原初の学び」という言葉でした。自分の外側の世界と響き合い、遊ぶ空間。全てが遊びであり、学びでありました。こういうことを整地していくと、「国語」になったり「体育」になったり「道徳」になったりするのだなぁという学びのプリミティブな姿を垣間見た気がしました。幼児教育ではこういう学び(遊び)を仕組むようです。その辺りのことを勉強するのはとても面白そうだなと思いました。
今まで見てきた学校の勉強という文脈の中の子どもたちの姿とは本質的に異なる圧倒的に自然な姿がそこにはあったのです。1章で述べた6Gサイクルはこの光景を見て、発想したものです。人は自然に学ぶ。生きることそのものが学ぶことなのだ。そういうことを確信できる光景が、公立小学校の、1教室の、1授業時間のその中に、現れたのです。これは今後の教育を考える上で非常に大切な出来事であったと思っています。
子どもたちの学びに必要なのは教育内容や方法を「増やす」ことではなく、広く使える最低限の知識技能を授けた上で徹底的に「減らす」というアプローチが大切なのではないかと思うのです。