問題意識(文章理解)
今の日本の学校教育において、子どもたちを「教科書を自分で読むことができる」という状態にすることは大変意味のあることであるにも関わらず、多くの学校で実現できていない。(新井紀子先生のRST的なところから引用可能か?)
その理由を「読書方略的指導の欠如」に求めることは適切ではないと考える。多くの教科書では段落構造の読解や、要約活動、文法の解説など、読書方略につながる様々な内容が掲載されており、多くの教師は教科書に忠実に授業を行っているからである。従って、私達が考えなければならないのは、「なぜ、読解方略に関する指導を行っているにも関わらず、子どもたちは“読めない”のか。」という問いである。この問について筆者は2つの問題点を指摘しようとおもう。
1つ目の問題点は「読解方略の使用場面の欠如」である。日本の学校教育では、読書方略的な知識の伝達ばかりをやる一方、「自分で教科書を読むという体験」を提供できていないと感じている。技能の向上には知識的なインプットも大切であるが、得た知識を実際に活用しながら習得を目指すという過程も重要である。知ることとやってみることを両輪として初めて技術が獲得されていくはずである。
ところが、多くの教室で教科書とは「授業時間中に、みんなで一緒に新しいページをめくり、そのページについて教師から丁寧にレクチャーを受けながら、みんなで一緒に理解していくもの」というイメージが強く、極端な場合には「まだ授業で取り扱っていないページは読んではならない」という指導すら見かけることがある。そんな文化の中では教科書の未習のページを学習者がまず自分の力で読み解いてみるという経験が提供されることはない。これでは和室に正座をして泳法について毎日学んでいるのと同じである。だから、子どもたちはいつまでたっても教科書を読めないのだ。
ここまでの論から導き出されるのは「読解方略に関する指導は行っているのだから、後は子どもたちに教科書を自力で読むという体験を大量にもたらせば、子どもたちの教科書読解力は上がる」という結論である。この結論は一面的には的を射ているとは思うが、少々乱暴であるかのようにも思う。その違和感はどこから来ているのか。それは以下の問いとして言語化できないだろうか。「今学校で指導している読解方略は、本当に子どもたちが実際に教科書を読むときに“使える”方略なのか。」筆者の感覚としてはこの問いにまっすぐ、YESと答えることができない。その理由は、教科書で指導されている読解方略的な指導は領域分化されすぎており、「読む」という行為全体を捉えられていないのではないか、と感じられるからである。
読解方略に関する指導機会はあるのだが、そこで伝えられている知識はあまりにも断片的なものになってはいないか。これが上に挙げた「なぜ、読解方略に関する指導を行っているにも関わらず、子どもたちは“読めない”のか。」という問いに対する2つ目の問題点である。文法的な内容からは、一文の中に含まれる主語や述語の関係性と品詞の分類から、精緻にその構造を読み取る方法が学べるし、説明文における段落構造における指導からは、論の展開に関する知識が学べる。しかしこれらの知識は「実際に教科書を読もうとした時、まず何をすべきなのか」という問いに答えられるものではない。それらの知識は文や文章の特性を部分的に説明するスタティックな知識でしかなく、「読むという行為の全体像」が見えてこない。
以上のように、現在の読解力問題には①読解方略の使用場面の欠如②読解方略の統合的なモデルの欠如という2点の問題を指摘することができる。そしてこれらの問題はそれぞれに独立しているのではなく、②→①という因果関係が想定できる。つまり、学校が子どもたちに読解力を育てられていないという問題の原因は、『読解方略の統合的なモデルの欠如していることで授業中に指導される断片的な読解方略が統合されず子どもたちはいつまでも自力読解ができない。そのため教師は自力読解をいう活動をさせづらく、結果として読解力が育っていかない。』という構造にあると考える。
読解力に限らず、何らかの技能の習得を目指す際には、①正しい知識を得て、②その知識を実際に使ってみて③それを自分で振り返るというサイクルを指導者にフィードバックを受けながらすすめるという過程が必要になる。今の学校現場ではこれらの内、①の「正しい知識」が断片的、部分的に個別に提示されているのみなのである。これが子どもたちに読解力が育てられていない状況を作っているのではないか。この問題意識が正しいのであれば、まずやらなければならないことは“今現在教科書で断片的に指導されている読解方略に関する知識を統合するような大きな概念を定義する”というということになる。
NEXT