まず「手段」を手渡す。
まず「手段」を手渡す。
手渡すというと、「もう“けテぶれ”という学び方を子どもたちに手渡しているのでは?」と思われるかも知れません。その感覚は半分正解です。けテぶれの導入時に子どもたちに言うのは「けテぶれをやりましょう」ですね。これはある意味で「けテぶれという学びの“型”を押し付けている」とも取れます。“手渡す”とは自由にその子に任せるということですから、“型をおしつける行為”を「手渡す」と呼ぶには少し違和感があります。この違和感ははけテぶれ実践者の方からもよく聞くことです。けテぶれという実践は、子どもたちの自由な発想で自分なりの学びを作り上げるというイメージが強いですからね。
しかし僕としてはそういう“型”を正しく再生できるように「けテぶれをすること」が目的になるという過程を経ることは大切だと思っています。何かスキルを身につけるための入り口はいつも、「基本的な型を知り、それを徹底的に反復する」ということですよね。「型無し」の学習者ではいけません。
大切なのは「型」を押し付けたその後です。学びの型を知り、学び方について思考できるようになるということは、そこから新たな方法を考えつくこともできるようになるということ。つまり「型」を手渡したのなら「型破り」な学習者が出てくることも当然想定して置かなければならないということです。「手段の目的化」とは、もう十分“型を正しく再生する力”があるにもかかわらず、いつまでもその型を破ることを許さないような環境で生まれます。武道でいう「守破離」の考え方でいうと、「守(けテぶれの型どおりに学習をすすめられることを目指す段階)」の次は「破」。つまり、その“型”を破り、自分なりに試行錯誤をしてみるという段階です。けテぶれの指導では、積極的にこの段階に出るように促します。
例えば「計画」をたてるときにはたって歩きながらがいいのならそれを認めるし、「テスト」は一人で集中したいから廊下でやりたいのなら、それもOK。苦手なものを覚えるために暗記カードを使いたいなら文房具屋さんで買ってくればいい。といった具合です。目標や目的のために使うものであるのならばどんな手段もひとまず認める。やってみて、うまく行かなければまた違う方法を考えればいいのです。これは「けテぶれ」の基本的な考え方ですね。なにか思いつく(計画)のあとは必ず、やってみる(テスト)であり、やってみたのならその後は必ず分析して、次の一歩を修正する(練習)です。けテぶれによる学習者としての自立を目指すのなら、学習空間全体にこういう風土を作りたいです。
その風土が学習者を、破の次の段階である離(試行錯誤のプロセスも脱し、型を守ったり破ったりするという文脈から離れた、自分なりの一つの結論に達する段階)に導きます。型から離れて自分なりの型を作る段階に至るには、型を守ることと、型を破ることの間を何度も往復する必要があると考えるからです。つまり、僕のとらえる「守破離」の段階は直線的に発展していくのではなく(図)のように展開していくものだという感覚があるのです。
別の言い方をすると、型を破る、“破”の段階にいったからと言って、必ず次はその試行錯誤のプロセスからも離れる“離”に進まなければならないのではなく、型を守る“守”の段階に戻ってもいい、ということです。だから積極的に型を破り、うまく行かなければまた型に戻り、そのトライアンドエラーの中から「自分なりの学び方」についての感覚を研ぎ澄まし、いつの間にか「けテぶれ」を全く意識しなくても、“自然に”自分の学びが形成されるという段階を目指します。これが“手段”を手渡す。ということです。「けテぶれ」という手段を手渡すのは、自分なりの学び方を手に入れるためのに一つの型を与える、という指導的な行為なのです。