なぜQNKSを使うと自分で考えられるようになるか
【要旨】
(論理的)思考は言語で行う
→言語は要素と構造でできている
→QNKSは要素と構造の扱い方を学ぶ
→QNKSを習得すると論理的思考ができるようになる
思考(の大半)は言語で行う。つまり言語の仕組みを理解すれば、言語による思考を自在に扱うことができるのではないか。
「言語の仕組み」というとすごく難しくて入り組んでいるように感じる。学問的に整理しようとおもばその捉え方や定義、機能の分類は膨大に見つかってしまい、途方に暮れる。しかし現実に子どもたちが行っている「言語による思考」を観察すれば、印象は変わってくる。実はもっとシンプルな仕組みで機能しているのではないかと思われるのだ。
僕がここで言う“言語の仕組み”とは「要素と構造」これだけである。要素とは語彙、構造とは文法のこと。意味を含んだ単語を意図的に配列し、構造化することで文となる。そして1文1文を「要素」として、意図的に配列し、構造化することで、文章となる。文章を要素をとして、意図的に構造化することで、1つの表現物となる。単語からもう少しミクロにみると、単語は文字を要素として、特定の配列をすることで意味を発生させている。
最小単位はどこまでも分けていけるが、ここではあくまでも“言語を思考や表現のツールとして使いこなす”ことを目的にしているため、その目的に合うレベルまでの分解でよい。そうなると、思考の道具としての言語の最小単位は、単語ということでいいだろう。単語を配列して文に、文を配列して文章に。文章を配列して表現物に。こうして思考は構造化されていく。つまり言語による思考活動とは、要素と構造の操作をする活動である、と言えるのではないか。
ではこうした特性をもつ「言語」を操るにはどうすればいいのか。思考の成立過程を見れば明らかである。思考に必要な情報を抜き出してきて、それらを組み立て、具体かと抽象化を繰り返しながら情報を取捨選択し、一つの考えとしてまとめていくのである。つまり「抜き出し、組み立て、整理する」と言う3過程である。しかしこれだけでは思考活動は成り立たない。この3過程の前には「問い(と答え)」が存在していなければならない。無限にある情報の中から何を抜き出し何を捨てるかの判断は、その前の問いと照らし合わせなければ成立しないからである。例えば「学校はなんのためにあるのだろう」と言う問いに対して、アイスクリームの作り方の情報を抜き出してくる必要はない。問いがあるから、情報の取捨選択ができる。よって「抜き出し」の前には「問い」がある。
すると言語による思考は、「問いに出会う→情報を抜き出す→構造化し関係性を把握する→取捨選択と意図的な配列をしながら自身の思考表現として整理していく」と言う4過程が想定できる。もう少し簡単に言うと「問いに基づき、抜き出し、組み立て、整理する」となる。よってこの4過程の頭文字をとって“QNKS思考法”と名付けた。なんとも当たり前の4過程である。しかしこの「当たり前のこと」を分析し、サイクルとして明文化すること、そしてそのサイクルの頭文字を取り、キーワード化することの効果は計り知れない。このQnkSは当たり前のことだからこそ、どんなことに対しても、どんなときにでも「思考表現」を要する場面でありさえすれば、適用できると言う高い汎用性を付与することができ、また、当たり前のことだからこそ向き不向きが出にくく、高い再現性を確保することができるのである。この辺りは「けテぶれ」と同じ構造だ。