けテぶれ✕授業の「手段」〜けテぶれから始めよう!〜
けテぶれ✕授業の「手段」〜けテぶれから始めよう!〜
目的に魅力を感じ、目の前に目指すべき標(目標)がはっきり見えれば、子どもたちは学びの海を自分の力で渡っていくことができるかといえば半分YESで半分NOです。
子どもたちが“その時点で”持っている「学習力」がそれぞれ違うからです。絵が得意なこと苦手な子がいるように、足の速い子と遅い子がいるように、勉強が得意な子も苦手な子もいますよね。さらに、勉強でも算数は得意だが国語は苦手な子もいれば、算数の中でも計算は得意だが図形は苦手など、教室の中には多種多様な得意と苦手が混在しているはずです。この当然の事実を前提に考えなければ何もかも空回ります。このような状況で「目的と目標」だけをしめしてヨーイドンとやれば、できる子はどんどん進み、できない子はひたすらに取り残されるという2極化現象が起こります。ここでよく言うのが「終わった子はまだの子に教えてあげましょう」という指示ですよね。こうすれば「学習内容」について交流しながら学び合う事ができます。しかしそのような関わり合いだけでは、けテぶれ✕授業の「目標(テストで合格点を取る)」にしか向かうことができません。
けテぶれ✕授業の「目的」は「自立した学習者になる」です。そのためには“自分で”学べるようになるために、「学び方」に関するトライアンドエラーが大切なのです。これは難しそうですよね。「学習内容」について交流しようと思えば共通の教科書を使って、対話をすることができますが、「学習方法」には「共通の方法」がありません。それが「学習方法について交流する」といったときの難しさを生んでいるのです。そう考えれば、対処法は簡単ですね。「学習方法に関する共通の方法をクラスで共有する。」です。だから「けテぶれ」なのです。
「自立した学習者になる」という目的を共有する以上「学ぶ」という行為を明確に子どもたちに手渡してやらなければ、自らの学ぶという行為に意識的になって思考し、助け合いながらともに目的に進むという構造を生むことはできないのですね。問題を自分で解けるようになるといった眼の前の目標に対しては子どもたちは自然に学び合うことができるのだが、自分で学べるようになるという目的をその先にみるとき「学び方」に関する共通言語をその空間で共有することが必要不可欠なのです。