“正解”を押し付ける教育が、“自分”を見失わせる
“正解”を押し付ける教育が、“自分”を見失わせる
主体的学びと対話的学びの底で常に並走しているのが深い学び。「深い学びとはなにか」に関しては諸説ありますし、どれも大切だとは思います。その中で、僕の実践での“深い学び”の最重要定義は「自分について深く知ること」です。ここにもこれまでの教育とは逆の考え方があります。
これまではいかに子どもたちの外側にある“正解”を飲み込ませるか、という努力のベクトルが強かった。そんな教育で育った子どもたちは“自分”を見失ってしまっているのではないでしょうか。教科の本質を理解することももちろん大切ですが、その本質を理解する“自分”について子どもたちはどれほど深く知っているでしょうか。自分は何が好きで、どう生きたいと思っているのか、といった根本的な問いに答えを見つけられないまま大学生になり、周りに流されなんとなく就職活動を始める。就職活動でも、目の前の企業が暗黙のうちに設定する“正解”を手探りで探しながら、その場だけの志望理由を述べ、なんとか自分を拾ってくれる企業を見つける。今までの教育の中で先生に求められたことを正しく再生し、“優等生”とされ、有名な大学に進学できた子ほど、こういう事態に陥っている傾向がないでしょうか。
誰かが設定した正解を飲み込ませ続けるということは、自分を見失わせることに繋がるのです。これまでの社会では、一般論的“正解”は社会で広く“正解”として扱われ、その“正解”を正しく再生できる力があれば、それなりに「成功」という生き方をすることができました。だからこれまでの教育はそこに注力してきたのだと思います。しかしもう時代は変わったのです。はるか昔に。