映像の原則(富野由悠季)
https://gyazo.com/b4c01996e16d2f28297b2d05a7bd0630
本書に表現されているのは、徹底的な、作り手の矜持である。クオリティの絶対感覚、と言い換えてもよい。
本書は、長年職場で著者のしてきた説教の、集大成でもある。映像業界には、実に多くのワナビーな若者がエントリーしてきたのだろう。その苦労の歴史が、本書には、刻まれている。
映像作品に感動したものが、自分も作りたいと考える。実際に、学校に通ったり、スタジオなりプロダクションの門を叩く者もいる。しかし、その誰もが名作秀作をものにするとは限らない。むしろ、その逆がほとんどである。
本書は、未熟な映像作品が、なぜ未熟なのかについて、第三者に映像を届ける原理原則を理解せずに制作された結果、そもそも内容の理解すら出来ないものになってしまっているからだと喝破する。
業界には様々な既成の制作システムや業界用語、ルーチンワークが確立している。そのなかに漂っていれば、なんとなく、一員になったような錯覚をする。そのなかで、シナリオって、こんなもん。コンテって、こんなもん。アニメって、映画って、ドラマって、こんなもん。ということを、学んでいく。しかし、浅薄な理解で、ただそれらしきものを慰んでいるだけでは、鑑賞に耐える作品にはならない。
***
必要なのは、映像というものの持つ根本的な性質、法則、原理原則を理解すること。観客がそれに何を期待し、どのように反応するかを理解すること。
「受け手」から脱皮して、「作り手」になること。
そのための考え方を、惜しみなく表現してくれている。きっと、現場において、数えきれないほどの説教や指導をしてきたのだろう。その厚みとリアリティが、これでもかと詰まっている。
映像作品に固有の内容も面白く興味深いが、
プロフェッショナルとして成果物を生み出すための考え方
必ずしもプロフェッショナルでなくても生きていけてしまう業界構造
真のプロフェッショナルを目指す上での難問
いかなるプロフェッショナルにも、満足のいく成果を生み出すことが、果てしなく困難であることへの苦吟
といった、非常に切迫感のある、ストレートな吐露が語られる。それは、なにかものを作りたいと思う人間にとっては、どんな業界の人間にとっても、必読である。
AIを使ったらラクラクだ、という、馬鹿げた話をしている人間は、要するに、作り手になれない未熟な人間を騙くらかしている不届きものである。
作る、ということに対する厳粛な敬意を欠いた人間に、何かを生み出すことは不可能である。
***
本書が教えてくれるのは、劇的な映像は、明確な演出意図がなければそもそも作品として成立しない、ということである。そのようにして作られたものは、ぼーっと見ているだけでも理解できる。そのようにして作られていないものは、どんなに観察しても、よくわからない。わからないものは、不快であり、見られない。
これは実に面白く、興味深い話である。
例えば人間は、何の関わりもない他人の世間話、なんの演出意図もない会話でも、それを立ち聞きした瞬間に、そこで起きている文脈を察することができる。
***
人間は、根本的に、受身でできている。理解できるものでなければ、理解できないように、できている。人間の受身な無意識は、一貫性を求める。意識的な能動性は、無秩序であるにも関わらず。
このことは、人間の愚かさを示唆しているが、同時に、人間は、理解できるかどうか、というセンシング能力については、驚くべきほどに、高性能である、ということも意味する。
未熟な人間とは、そのことを理解していない人間である。
しかし、本当にこう、本書の提示する観客像は、面白いというか、不思議というか、興味深いというか。
観客は、最終的には書き割りや筋書きを理解したい、という欲望を持っているのに、それを直接示されることはイヤで、あくまで具象の積み重ねのなかで、それを読み取りたい、と思っている。
実に面倒な存在だなぁと思うが、考えてみれば、観客としての自分自身もまたそうなのだ。おそらく、この無秩序な外部環境を生きる上で、意味を見出すという機能は不可欠なもので、世界として表現されたものが意味を見出したい本能に反したら、その瞬間に嫌悪感を発生させてしまうのだろう。
***
人間は、変化するものに注意を向ける。
そして、変化から意味を読み取る。
人間は、他の人間の動機に敏感である。
その動機を暗示する行動や表情を観察する。
人間は、自分が見たいものを見ようとする。
映像作品は、人間の持つ、その習性に応えるべく制作される。
だから必ず、映像作品とは、誰かが見せたいものを見させられているのである。
***
以下は、本書を理解する為にマーカーを引いた箇所のメモ。
マンガや小説は、鑑賞する時間を読者が決められますので、とのような"コマ構成"や”書き方であってもいいようなものの、作者は、読み直しや見直しをしないで済ませられるように構成することに気をつかっています。
しかし、映画やアニメ、演劇などは、一度はじまってしまったら、見直すことができない見世物ですから、一度見ただけでもおもしろく観せる、ということが演出の最重要事項になります。ライブと同じなのです。
しかも、映像媒体は、舞台やライブ以上に視覚的変化が激しいものですから、その制約のなかで、観客に見直しをさせず、混乱させないように構成します。そのために、映像の原則といった最低限度の約束事があるのです。
映像というのは“見た目”で分かるように見えますが、じつは、かなり複合的な要素が重層的につまっているために、“なんとなく見た目のとおりに制作して作品にしたつもりになっても思ったように他人に伝わらない”ことがおこるのです。
ホーム・ビデオ・レベルのものが、関係者にはおもしろいのは“関係者”だからなのです。が、一人でも関係者以外の人におもしろがらせ、メッセージを伝えようとする作品をつくるためには、まったく違った”仕事の技”が必要になるのです。
感性というのは、映像作品の企画の段階での“ひらめき=思いつぎ”と最終的に作品をまとめる段階で“直感”を働かせるものであって、映像制作プロセスの途上では、かなり論理的な作業に終始すべきもので“理詰めの仕事”に終始せざるを得ないのです。
物語を語ることは“過程を語る”ことです。過程にはどうしても時間が必要になり、語るべきものには、時間とともに発展性があるから、おもしろさを創出できると断言できます。
観客はこの(発展性=おもしろさ)を要求します。“変化”と理解してもいいでしょう。そのため、昔から成長物語が好まれているというのは、短絡的かも知れませんが、まちがいではないのです。
観客にある時間を共有してもらうためには、その物語の語り口にあったテンポとリズムがなければならず、それは音楽とまったく同じなのです。
変化というのは、ただ単に変化するのではなく、“動機がふくまれた変化"であると考えてください。
視覚に訴え、音声をつかうという複雑で高度な技術を要する媒体でもありますので、みんなで見て楽しいものを創りたいと考えるほうが、正しいと感じます。
観客という大勢の人々に開放感を感じてもらい、日頃の鬱憤を晴らしてもらい(感情を吐き出す=カタルシスを感じさせる)、共感を得られるようなものを創りたいと考えています。
観客の癒しになれば、それは最高です。
映像そのものの印象だけでも、予測とか期待をみちびくことができますし、葛藤も喚起できます。そして、当然のなりゆきを示すこともできて、不安定感や安定感を持続させることもできるのです。
このことから“空間も視覚的リズムを生む”というような定義を生むことができるでしょう。
出来の良い映像作品は、
まずテーマである主旋律があって、
それを一定の変化するテンポのメロディとして見えて、
それに正確な視覚リズムが付与され、
最後に、観客が自然に見ていられる長さにまとまっています。
これが“芸”であり、観客に見てもらうための最低限度の“作りの姿勢”なのです。
カットをいくつもつかって表現しているのが映像作品ならば、イメージを並べていけば表現として成立していると覚悟をして、“ドラマ的に必要だからいれておぐ”という感覚で、“刑務所の入口”“安ホテル”“潜水”といったカットをつなぎ込んでいくのです。
これについては、映像のダイナミズムも糞もないように感じるものですが、しかし!決定的にそれを成功させている監督に小津安二郎がいます。
作品全体のテンポとリズムの統制がとれてしまえば、会社のオフィスだろうが山陽本線だろうが、旅館の廊下だろうが、どうということなしに“物語のあるべき処に”にあるのです。
それは単純に作者のイメージを羅列したものではなく、“カットは物語に殉死するもの”として存在しているのです。
これは、映像の究極の肝です。
カットが変わることは、画面全体がすべて一気に変わるわけですから、映像的には大変極端な“変化=動き”ということになります。
ぼくは乱暴なカットつなぎを見ると、「ガチッかカチッという音が聞こえるようにつながっている」という感覚に囚われることがあります。
自分の作品は、自由な発想のもとにつくられたものだから、「原則など無視してやる」と考えるのも構いませんが、"映像の原則”の各項目で記していることは、譜面の五線と音符の読み方のようなものですから違反できません。
演出するということは、シナリオに示された劇(ドラマ)を人間の基本的な感情にしたがい、さらに創意(独創性)によって創作していくことです。
発表される作品というのは、社会になんらかの影響をあたえるものです。
作品はヒットすればいいのだという論法は一方では正しいのですが、この一方の論にしたがうだけでは危険だと感じるのです。
映像はエンタテインメントなのだから、そういう面倒なことは考えないで良い、という表現の問題は、ぼく自身が社会の成員のひとりであるので、かんたんに容認できないのです。
映像媒体の有利なことは、これら複雑な要素がからみあっているおかげで、演技をつけることが下手でも、映像処理でごまかせる面がありますし、絵や演技が良ければ、映像的な処理が下手ですむ場合もあります。
そこに、創作者たちの責任を不明瞭にさせる点があって、いつまでもいいかげんな仕事をしていられるという生活協同組合的な利点も発生します。
その対極にある問題は、”どれひとつの要素が欠けても映像はつくれない"とう決定的に不利な要素をかかえているのが、映像制作の宿命でもあるのです。
同じシナリオ(台本=脚本)からでも、演出次第でおもしろくもなり、駄目にもなりますが、このことは、案外スタッフのあいだで認識されていません。
いや、認識されているはずなのですが、その是非を口にすることが絶対にないのです。そんなことをして、評価をまちがえたりしたら、その後、自分に仕事がこなくなるからです。
再演とかリメイクものでないかぎり、制作されるものはたいていひとつだけですから、演出家やコンテ・マンの能力がくらべられることがないのです。
このことが、作家の評価を曖昧にし、さらには、良い出来であることと、人気が出る(興行収益が良い)ことはまったく違うために、現場のスタッフは、絶対に作品やその責任者の評価をしないのです。
これは作品創りにとっては不幸なことなのですが、スタッフの側からいえば、そこそこの能力でも食べていける原因になっているのですから、ありがたいことなのです。
このことが、現場の能力を上げさせていないのかもしれませんが、こんな曖昧な状況だからこそ、スタッフの裾野を広くして、異能の才能を育てる土壌にもなって、創作活動を広く豊かにしているという側面もあるのです。
コンテ作業では、物語の論理性やテーマ論は前提として意識されますが、作業に入ればそんなことは忘れてしまいます。
コンテ作業とは、シナリオを読み込んでいきながら、映像のダイナミズムにのっとって、個々のシーンやカットをいかに画にするかという演出プランをたてていく作業ですから、その要諦は、“シナリオを逆算しながら、物語の根本を映像的に検証していく作業”と考えてください。
無能なコンテ・マンやおバカな演出家によってシナリオがメチャメチャに改竄された歴史がありすぎたことが、プロデューサーやライターから、コンテでシナリオの直しはしてはならないという概念を育てたようです。
そのぎゃく、悪いシナリオは、演出で良くすることはできない、です。
これも鉄則ではあるのですが、シナリオに手をいれられる余地があるコンテ作業なら、悪いシナリオをコンテの段階でそれなりに改善することはできます。
つまり悪いシナリオを演出で良くすることができないのは、演出家がシナリオを改訂できないからにすぎません。
コンテについては、競作(コンペティション)方式を採用するという方法もあります。
カメラをまわす前の段階で、一本のシナリオから、二、三本コンテを切らせてみて、良いものを採用するという方式です。
その後の経費投入のリスキーさとくらべれば、問題にならない手間のはずなのですが、これをやった制作方法というのを聞いたことがありません。
作品になったものは、技術的な苦労などはまったく感じさせずに、観客を楽しませて、”ためになった”“勉強になった”“癒された”“あすから頑張るぞ"とさせればいいのです。
そのように創り上げるべきなのです。
苦労しただろうな、と見えるものは、作品としての高みに至っていないのです。
だからといって、“高みを狙って上品なものを創ればいい”というものではありません。
肝に銘じるべきは、“自分だけ分かればいい”というものは作品にもなっていないのですから、それはまちがってはいけません。
これが、若い創り手に言いたい最大のことです。
残念ながら、良い作品が人気が出るとはまりません。だからといって、くだらない作品だから人気が出るものでもありません。
人気を出す秘訣はあります。
それは、時代に乗ることです。冗談のようですが、それだけです。
では、そのハウツーは何かとなれば、説明できません。
一見、説明しているような方々が世間にはいらっしゃいますが、所詮、結果からの説明しかしていません。
描く、演出するためには、ふつうと劇的な事象の落差を創出できる感性がなければなりません。それがあってこそ、ドキッ! かギェー!アヘー!エロイ~、か、癒し~、が創作できて、おもしろい仕事になるのです。
ですから、ふつうにふつうを表現できなければ、観客に何も理解させることができないと覚悟してください。劇中の”ふつう”というのも“劇"なのですから、ただの“ふつう”ではないのです。
『黒澤明全作品集』(東宝事業部刊)の『映画についての雑談』の項で、黒澤監督は、「一応コンテュニティを書いても、その通りに撮れてもおもしろくはない。何かの理由で予定が変わって不思議な効果が生まれることがある。それを全体のバランスを崩さずに支えていった場合、大変おもしろくなる。陶器を焼くときの上薬の効果と同じで、計算に入っていなかったおもしろいことが起こるのが時々ある」といっています。
この感覚は、上級編レベルのことなのですが、大事なことなので、ここに記しておきます。
コンテはあくまでの予定であり、プランにしかすぎません。現実の現場が、監督ひとりの思い通りの状況であることなどはありません、場所の問題、大道具、小道具、太陽の位置、天候、役者の機嫌のよしあしまで関係していて、それがひとりの監督の考えている通りになっていることなどは絶対にありません。それは、アニメでも同じです。
その現場に足を踏み入れてみて、そのうえで、コンテに書かれた予定と現場の状況をすりあわせて、そして、ワンカットが撮影されるか、作画されるのです。
そのときに、はじめて、創作の最終的な決断がされ、それによって手に入れたカットが、黒澤監督がいうようにバランスよく支えあうようなものとなっていれば、それは、素晴らしい作品を育てていくことになります。
さらに、大事な問題を黒澤監督は指摘しています。
黒澤監督は、見てすごく広い絵と、なんとなく小ぢんまりまとまっている絵の差は、“画面の張力の差”という表現をしています。
つまり、画面外にあるものまで感じさせるのが、画面の張力があるかないかという問題で、画面に広がりがあるということです。
これを画面にするのは、監督の責任だと言い切っています。
このことを、黒澤監は「群集を撮る場合、スクリーンに入るだけの範囲に人を集めて撮っても、ボリュームは感じない。群集をガッと集めて撮るとフレームの外にも人を感じさせる」と簡単にいってしまっています。
確認の意味で、ブロットとカットの関係について説明します。
プロットというのは、物語の運びを示したもの。あるいは、物語の運びそのもののことですから、作業にはいる前に、プロットが頭にはいっていなければなりません。
それにそって各カットを描いていくわけですが、それぞれのカットは独立したものではなく、前後の関係性を密着させていかなければなりません。
その密着度が強ければ強いほど、カットに張力がでて、完成度が高くなり、その張力が物語を引っ張っていきます。
実写で数台のカメラをつかって同時に撮影したカットでも、そのカットつなく場合、濃影時間にそってつないでも、つながって見えないことのほうかなぜなら、画像を撮影してしまったあとでは、画像そのものの独自性(独自の常在意味が発生した、と理解してください)があるために、物影時間に準じたのイレコードにしたがって振した素材をつないでも、うなからないのです。
この具体例については、TVのスタジオ番組を録画して音を消して見れは証明されます。カットとカットは物理的につながっていても、映像としてはつながっていない事実を見ることができます。
音があると連続して見えていた映像というのは、ライブであるのを承知していた観客の意識がつなげて見ていただけなのです。
しかし、フィクション(物語)を描く場合は、これは許されません。
描かれる世界は、前提としてカメラのない架空の舞台ですから、物語を見せながらも、舞台そのものの広さから、人物関係までをその世界の現実として表現しなければならないからです。
録音スタジオというところは、出資者、製作者、コンテが読めず完成品にちかい状態まで作品に接することができない人びとが、はじめて作品をチェックする場所でもあります。
ですから、現場のスタッフは、それらの人びとに礼を尽くすべきです。
出資をしてくださった方や制作を許可してくださった方には、どんなに狭いスタジオ内でも、映像が見やすく、音響のよく聞こえる席を提供しなければなりません。
テレビ番組の制作になれきっているスタッフには、この配慮が足りません。
それらの人びとが、現場第一主義を認めてくださるまでは、現場の人間は、いつもそれらの人びとの背後にひかえるという謙虚さが身だしなみというものです。
監督だからスタジオの中心にいるべきだと思っているような神経では、人を観察する能力など身につきません。
背後にひかえていても、作品に対して厳然と周囲が納得できるような演出的な意見を述べられれば、いつの間にかスタジオの中心に座っていられるのですから。
ただ座って台詞の修正に集中するだけとか、録音監のプランニングの問題点も気づかず、効果音も聞かず、それでいて、自分の気づいたただ一点の問題を、前後の見境なしに修正させようとする態度はとても恥ずかしいことなのです。
録音監督にすれば、画をつくった監督や演出家が自分より上位者だと覚悟していますから黙っていますが、腹のなかでは笑うか、怒り狂っているのだ、と覚えておいてください。