企業組織における変革
企業組織における変革とは、真善美に向かうことだけを、考えれば良い。
どうしても、企業組織における変革的な取り組みにおいては、担当者のエゴが混じりやすい。
最先端の手法を取り入れて褒められたい
自分の価値観ややり方を通したい
変革達成者として、歴史に名を残したい
社会一般に知られたい
独自の発明でありたい
己の才覚を認められたい
などなど。
そういうことを考えているうちは、変革にはならない。毎度毎度の「口先だけ、ポーズだけの変革、どうせやっても無駄な、管理部門や本社、経営陣の自己(不)満足」で終わってしまうものである。
変革の目的は、以下に挙げるようなものだと思われがちである。
VUCAな世の中で上手に生き残ること
技術革新によって社会を驚かせること
イノベーションによってビッグビジネスを生み出すこと
しかし、こうしたものを変革の目的に据えるのは、誠にちゃんちゃらおかしい話なのである。
では、目的とはなにか。
己のありようを省察し、身を正す、ということである。そして、世の中全体のありようも考える、ということである。等身大の自分達を謙虚に見つめ直す。
見つめ直すと、どうなるか。
必ず、どこかに矛盾や不正義が見つかるはずである。
真っ当とはいえない、倫理的にいっておかしなことが、あるはずである。
ルーチンワークの生み出す保身主義や官僚主義、そこから生じる利権や怠惰に埋没し、胡座をかいていると、それは仕方のないこと、必要悪に見えてしまう。いやむしろ、己の目を曇らせてしまい、それがむしろ正義だと言い聞かせ、思い込んでいることもある。
変革とは、そういう自分達を正す、というのとである。
パーパスによる組織風土変革とか、デジタルによる事業構造変革とか、画期的な新規事業による会社の生まれ変わりとか、そういう「口当たりのいい変革」がまことしやかに言われている。
パーパスやデジタル自体には、罪はない。それらを自分の商売にしようというエゴが混じると、途端に、単に胡散臭いだけの、廃棄すべき、唾棄すべきプロジェクトが出来上がる。
ちなみに、そうした取り組みの腐臭は、お金を呼び寄せる。これがまた人間や人間の経済における、非常に悩ましい話である。
社会の真善美とは、どういうことか。
誰もが、生きたいように生きる
誰もが、抑圧や暴力にさらされない
この二律背反を、成立させることではないか。
(ここでいう「誰も」には、他の生命、種を含む。もしかしたら無生物も含む)
人間の大脳が進化し言語が発生した以前は、そもそも地球は、そのようにあったのだろう。しかし、いまさら人間は大脳を捨てることもできない。大脳を抱えたうえで、文明の、次の段階を目指すしか、方法はなさそうである。
その道は、果てしなく険しく、困難であることは確かだが、要は、人間の一人ひとりの精神的なレベルが高くなればいいわけで、方法がないわけでもなさそうにも、思う。
鈴木大拙博士はその昔、アメリカの講演会の場で「自分たちは、リンゴを食べ、原罪を背負ってしまった。どうすればいいのか」という質問を受け、「もう一個食べなさい(Have another bite.)」と即答し、ワッとその場を沸かせたという。リンゴは、大脳・言語のこと、つまり、意識という名の業のことである。もう一つ食べよ。これほど正しい指針はない。つまり、分別心→無分別心→分別と、心の階梯を登っていけと言っているのである。
さて、ここまで書いた文章は、内容として、おそらくかなり「正しい」。しかし、正しさを正義にしては誤る。正義を権威や力により制度化し、強制するのは、愚策である。そういうことをやると、さらに面倒な矛盾が増えるだけである。
そういう意味では、こうしたメッセージを、声高に語ることも、おそらく、悪手なのだと思われる。
おそらく、自分がいま向き合っている禅問答は
渡すな
届けろ
ということなのだろう。
歩むべきは「ただしさ」でなく、「よさ」の道なのだと思う。