プロジェクトと漢字
人間の思考には文字が欠かせない。なかでも日本語での思考では、漢字は特別の位置を占めている。漢字についてのメタ認識を持たずに思考しているようでは、その中身も覚束無いというものである。
漢字とはなにか。もとを正せば、象形文字である。形により現象を象徴し、概念を表したものである。どういうことか。昔の人は、山を表現したくて、下図のような文字を書いていた、ということだ。
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山(甲骨文字)
当然、画数が多いと大変なので、徐々に抽象度が高まっていき、いまのような漢字になっていった。
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山(金文)
漢字の世界がこうした例だけで構成されているなら、話はさほど難しいものではない。目に見えるものの輪郭を捉えて記号化し、それをもって意思疎通すればよいなら、世界はとても単純なものであったことだろう。
なにが問題なのか。考えなければならないのは、現象と象徴という問題である。
これは、甲骨文字における象の字である。
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象(甲骨)
中国大陸で、甲骨文字が運用されていたころ、象という生き物は、人類とともに生きていた。ゆえに、非常に生き生きとした、象そのものとしか思えないような形で象という現象を、人は表現していた。
しかし歴史がくだると、地球の気候変動により寒冷化が進んだ。環境の変化と、おそらく人間による乱獲により、象は絶滅してしまった。
この頃には、象とは「大昔に存在していたらしい、伝説の生き物」となっていた。
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象(金文)
ここにきて、象という字が象徴する現象に、地殻変動が起きたのだった。単なる生き物の種を表す言葉ではなく、「かたち」をあらわす言葉となったのだ。大昔にいたらしい、姿かたちの変わった生き物。
ことほどさように、漢字の成り立ちは「山」ほど単純なものばかりではない。
例えば「白」という漢字は白骨化したシャレコウベがそのもとになった、という。確かに、白という色に輪郭はない。これをカタチとして表現しようとしたとき、必ず色が白いなにかをかたどったに違いない。
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白
また、山や象、白といった、漢字の元となるもっとも基本的な漢字群の成立は、さらなる漢字の生成を促した。生成の方向性は、大きく分けるとふたつの方向性があった。ひとつは、漢字同士の組み合わせによる、より複雑な概念の表現である。もうひとつは、音の共通性による代用である。具体的には、以下の5通りである。
象形
もののかたちをそのままかたどること。写しとること。日や月など。
指事
見てすぐわかるように、事物の関係性を示すもの。上や下など。
会意
二つ以上の字の要素、象形や指事の字を組み合わせて、新しい意味を表すもの。
形声
音符によってその字の音を表すもの。江でいうと、さんずいは、その字の属する分類を示す限定符であり、工が音符。
申(稲妻の走る形)は神のもとの字、土(縦長の饅頭形にまるめた土を台の上に置いた形)は社のもとの字だった。申の意味が「のびる」に、土が「つち」の意味に用いられるようになって、本来の「かみ」「やしろ」の意味に限定するために、神。祭るときに使う机である「示」を加えたわけだが、申と土は音符であるだけでなく意味もあらわしている。こうしたものを亦声という。
仮借
字形として表しがたいものを、同じ音の別の字を借りて表すこと。
漢字の世界を、実に面白く、難しくしている要因は、大きく分けて3つある。
ひとつは、例外も含めて極めて多様なありようをしている現象というものを、ひとつの記号で代表させようということの不可能性である。
次に、かたちという視覚的なものと、読み、音という聴覚的なものが組み合わさっている、ということだ。
最後に、かたちあるものだけでなく、かたちのないものやことを、概念として記号化しようという不可能性である。
本来、言語化や記号化は意味を情報として安定させることが、その本来の目的である。しかし、そのツールの最小単位である文字、とりわけ漢字というものが、利便性の高さを誇る一方で、実に曖昧なものでもある。
例えば白川文字学は、「休」は、人が木にもたれかかっているのは誤りだという。もともとはこの字の右側にあるのは「禾(か)」の字であり、軍事的な休戦の意味を持っていた、と。
内容について疑義を呈されることも多い白川文字学であるが、甲骨文字と金文をもとに、当時の世界観や文化、習俗から字の意味を探っていったアプローチは、極めて真っ当であり真摯であり、そのうえで、勇気をもって、当時の聖典である「設問解字」を批判した行為は、天晴れとしか言いようがない。
白川文字学の最大の成果は、口(サイ)の字を解明したことである。
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口(サイ)
この字は、直感的には人間の口をかたどったものにみえる。詩経や書経に、確かにそのような用例もあるそうだが、その本質は祝詞をおさめるいれものだったという。
古、右、可、歌、召、名、各、吉、舎、告、害、言、兄など、サイの字に従う文字は多数存在するわけだが、確かにこれらは単なるくちのかたちだと理解するのでなく、人間の念を収めたいれものだと理解して初めて、これらの字の成り立ちや意味が立ち上がってくる。
ことほどさように、漢字とは、理解を助けるツールであるようでいて、思い込みや勘違いも、往々にして助長する、しかし必ずしも混沌に導くわけでもなく、一定の秩序を人間にもたらすという、摩訶不思議な存在である。
この、漢字の世界の持つ
「ハッキリさせようとする行為が、かえって曖昧にする」
「同時に、人工物が、それ自体の本性により人間と相互作用し、拡大再生産する」
というふたつの様相は、実にプロジェクト的だと思うのである。漢字を理解することと、プロジェクトを理解することの間には、重大な共通性があるのは、間違いないのである。