よろずや平四郎活人剣(藤沢周平)
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「よろずや平四郎活人剣」は、交渉小説である。
ときは江戸時代後期、天保年間。水野忠邦による一連の改革が、町の人々の暮らしに、暗い影を落としはじめた頃のお話。主人公は幕府でお目付役を務める神名家の末弟、神名平四郎。冷や飯食いという、忸怩たる状況から抜け出すために、家から独立し、仲間とともに剣道場を興す話である。
もとい、話は、道場を開こうとしたものの、仲間の逃亡により、それが始まりもしない前に、あっけなく頓挫してしまったところから始まる。しかし、仲間に騙されましたと、おめおめと実家に帰るわけもいかない。とにかく、食うための仕事を作らねばならない。
そこで思いついたのが「よろずもめごと仲裁つかまつり候」という、一風変わった商売だった。
他人の揉めごとを仲裁する。いまふうにいえば、交渉人である。しかし、金なし、コネなし、実績なしの浪人に、そんな独立起業が果たして可能なのか?
もちろん、不可能だったら小説にはならないわけだけど、その過程の紆余曲折が、なんとも味わい深い作品である。
本書は昭和の終盤、平成前夜に書かれた作品だが、内容は、いささかも古びていない。むしろ、令和という、独立、副業、ひとり起業の花盛りなこの時代にこそ、読みたい本なのである。
以下は、平四郎が、この一風変わった商売を閃いた瞬間。
暗く閉ざされた前途に、不意に北見のひと言が穴を開けたのである。そこからかすかな光が射しこんで来るのを平四郎は感じた。
ーーー世に揉めごとの種は尽きまじ、だ。
ひょっとすると、これで喰えるかも知れないという気がした。世に揉めごとがあれば、その収拾に金を払おうとする人間がいてもおかしくない。現に平四郎と北見は、明石半太夫に金を騙り取られたが、奉行所に訴え出ようとまでは思わない。訴え出ても一文にもならないと考えているからだが、ここに一両の金で、明石から金を取りもどすことを請負う男がいたら、その男に一両を払うかも知れない。
この種の揉めごとなら、世に掃いて捨てるほどありそうだった。小は隣家との喧嘩ロ論から、大は大名旗本に貸し金を踏み倒された豪商などというものまで、だ。奉行所に訴えて出るほどのことでもない、あるいは訴えても益ないがそれでは腹がおさまらぬというたぐいの揉めごと。これを引きうけて始末をつけ、何がしかの報酬を手にすることが出来れば、暮らしは成り立つ。
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道場。現代でいえば、スクール事業である。その立ち上げ失敗、それも、人に言うのも憚られるような恥ずかしい失敗から、転じて湧いた、仲裁業というアイデア。
主人公の平四郎は、剣の腕と弁舌には自信がある。しかしどこか呑気で腰が軽く、おっちょこちょい。親友の北見は寡黙で実直。冒頭で派手に裏切りをかました明石は、仇敵とはならずに彼らと関係を維持して、ときに平四郎に客を紹介したり、仕事を手伝ったりもする。なんだか、ルパン三世、次元大介、石川五右衛門のトリオを思い出すような主人公たちである。
この物語は、道場の旗揚げに失敗した3人の愉快な仲間が、それをやり直すための、「繋ぎ」の2年間を描いた作品だとも言える。海のものとも山のものともつかない商売が、あっちにふらふら、こっちにふらふらしながらも、徐々に徐々に、形になっていく。
ストレートな立身出世の物語ではない。ビルドゥングスロマン、ということでもない。探偵小説にも似ているが、ハードボイルドではない。どちらかというと、落語風味のコン・ゲームである。騙し、騙され、ときどきアクションもある、痛快活劇。
あくまで江戸の市井と人情を基調とする落語的な情緒のなかで、危なっかしくも確かに独り立ちをしていく若者(と中年)たちの、お話なのである。
どんな事業も商売も、インスピレーションから始まる。そして、筋の良いインスピレーションとは、莫迦莫迦しく見えるものである。
独立起業して、己の腕で生きていこうと志す人は、ぜひとも本書を読むべきである。
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本書から得られる学びは、大きくいって、ふたつある。
ひとつは、交渉とは、いかにして落着させるのか、そしてそれを落着させるというサービスを、いかにマネタイズするのか、という過程への、洞察である。
揉めごとは、人間の執着のもつれによって発生する。それでは約束が違う、という恨みが、揉めごとの種だ。不満を持つ甲が、損得の不均衡を是正するために、新たな条件を吹っ掛ける。乙がそれが飲めない場合に、紛争が生じる。
仲裁とは、新たな約束を交わし直す、ということである。(あるいは、悪縁を断つ、間に立ち、裁断する、ということである。仲裁とは、仲を裁つ、と書く)
どんな揉めごとも、そこに関わりのない第三者にとっては、他人事である。預かり知らぬことである。当事者でないからこそ、代理人として立ち、解決に導くことができるというものだが、しかし、見ず知らずの第三者が理屈や道理を言って聞かせたところで、はいそれでおしまいというわけにはいかない。一介の浪人者には、国家権力の後ろ盾もない。
ではどうするのか、というのが、本書の魅力である。
手段の第一は、情報戦である。揉めごとの当事者たちの、拠出できる資源を見極める。譲れる範囲を見極める。ここをつかれたら痛い、という弱みも握る。これが見えて初めて、落とし所を設定できる。互いに納得のゆく、ギリギリのライン、言うなれば、こんがらがった因縁の、分解点を見つけるのである。
その作業は、平四郎の本業である剣術に、どこか似ているようである。分解点を見極め、執着を断ち切る。一刀両断に裁断するからこそ、一件落着する。
これを進めるプロセスも味わい深い。行儀良く、折目正しくやっていては、埒があかない。大胆かつ慎重に行動し、意思疎通を図る。手段の第二は心理戦なのである。
「小原屋の使いだな?」
相手は不意に声をかけて来た。まだ若い声に聞こえた。
「そうだ」
「郷右衛門に来いと言ったはずだぞ。勝手な真似をするなら、こっちにも覚悟がある」静かな言い方だが、声に凄味があった。刃物を持っているな、と平四郎は思った。
「まあ、いいではないか」と平四郎は言った。
「旦那は、暗いところはこわくていやだそうだ。よんどころなく代わりに来たが、べつに怪しい者じゃない。手間をもらって頼まれただけの者だ」
ぬけぬけと、約束を違反し「まあ、いいではないか」の一言で、突破する。
大きな約束を交わし直すために、小さな約束を反故にする。無茶苦茶に見えて、そうではない。交渉決裂のギリギリの切先を、紙一重で、かわす。その手際は爽快である。
情報戦、心理戦でも片がつかなくなって、最後に出てくるのが、実戦である。刀でケリをつける。これはまぁ、娯楽小説の必然である。(本当は、この問題は非常に重要な論点を提起するのだが、さすがに深くなりすぎるのでここでは割愛する)
間違いなく、これらの手腕とサービスは、価値である。しかしそれは、形としては見えない。だから、依頼人から手間賃をもらうのは、極めて困難である。
マネタイズの極意とは、切羽詰まった依頼人と出会う、ということである。
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本書から得たい学びのもうひとつは、商売をいかにして膨らますのか、という知恵である。
どんな新規事業も、いかにコンセプトが良くても、実際にお金が動くかどうかは、ひとえに信用に掛かっている。そして、駆け出しの頃とは、その必要とする最大の資源、信用力が、ゼロなのである。ゼロに百をかけても、千をかけても、ゼロである。
商売が転がるためには、信用が必要である。
信用を得るためには、案件が必要である。
矛盾である。
本書の良さは、矛盾を突破するための啐啄同時が、実に巧みに描かれているところである。
一ーー年も暮れるか。
ふとその感慨が胸にうかんで来た。
兄の家を出て、裏店によろず仲裁の看板をかかげて、とにかく飢えずに年を越せそうなのが、いまの平四郎には奇妙なことのように思われる。
はじめはそうは思わなかった。諸人のわずらいを仲裁して報酬をもらう仕事を思いついたとき、平四郎は心中思わず手を打ったものだ。友人の北見十蔵が、看板を書いてくれながら、この看板で世をわたるのはむつかしかろうと言ったときも、平四郎は何を言うかと思っただけである。
だが、この四月ほどの間に、平四郎はいささか世間を見た。たとえば揉めごとを抱えていても、ひとはその揉めごとに、すぐには金など出さないものだと知った。人は揉めことをじっと抱えこんだり、あるいは何とか独力でけりをつけたりして暮らしているのだ。
北見が言ったとおり、世の中はなかなか塩からく出来ている。これまであった仲裁仕事の半分は、北見や明石半太夫が周旋して回してよこしたものであることが、平四郎にもわかっている。
そうは思っても、感慨は格別湿ったものではなかった。平四郎は元来楽天的な男である。
ーーーま、みておれ。
世の中の塩からさはいささか理解したが、それでも考えにあまって、平四郎の商売を頼って来た人間はいたのである。剣と弁口にはいささか自信がある。先行きは明るかろうて、と平四郎は思った。むかしの悪事仲間から脅された、臼杵屋という糸問屋からもらった手間賃が、半金の五両は手つかずで残っていることも心を明るくする。そのことを思い出すと、この商売も、どうして捨てたものではない、と思えて来るのだ。
そう、世の中は、塩からい。
甘い話には毒がある。
どんなに有能だろうと、善意があろうと、人は、そう簡単には、お金は、動かさない。日々の食事やルーチンワークのなかで動かすお金には頓着しなくとも、人生や暮らしを大きく左右するプロジェクト状況においては、その投資先、支出先は、吟味する。いや、そもそもお金を出さずに自分でどうにかしようとする。
知り合いからお情けで紹介された案件、長兄から無給でおしつけられた案件。偶然ぽっこり出くわした案件。最初は、そういうところから、始まる。そういうところからしか、始まらない。
ドジを踏んだり、失敗もする。それでも、ひとつひとつの案件を通して、実績のかけらやノウハウ、経験、知識や教訓を得ていく。
それらのひとつひとつの積み重なりが、徐々に信用を形成していく。信用とノウハウの複利効果。最初は小さい商いでも、転がっていくと、大きくなる。
物語が進むにつれて、徐々に広がるのは、口コミと紹介である。その「ゆっくりさ」が、実に味わい深いし、さもありなん、という、感じがする。
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もちろん、本作は、フィクションである。作り話である。しかし、こうした描写の呼吸には、ある種の真実味が含まれている。なぜ私がそう断言するかといえば、自分自身の経験と、重なるからである。
きっと、この物語は、語り手自身の体験が濃厚に投影されたものなのだろうと思う。
フィクションに、なにがしかの真実味が宿っているとしたら、きっとそれは、作家の世間への眼差しの賜物である。
世間を見る。見切る。見切った人間だからこそ、創造が可能である。生み出す価値の総量は、見切ることができた分量に比例する。
「お察しかも知れませんが、この商売はひとの恨みを買うことの多いなりわいでございます。金を借りにくるお方は、みな切羽つまってこの家にやって参ります。のぞむ金を手に握られたときの喜びようといったらございません。この世の極楽を見たというお顔をなさいます。このわたくしめを、手をあわせて拝むおひとさえおられます」
「・・・・・・」
「だが、そうやって金を借りて行ったおひとも、一たん金を握ったあとは、このわたくしを敵のように思いなさる。むろんわたくしが、元金と利息を取り立てにかかるからです。しかしわたくしは両替屋で世を渡っております。金を貸しておがまれる筋合いもないかわりに、相手につごうがあるからといって、貸し金の取り立てを手加減したりもしません。そんなことをすれば、いずれ小原屋はつぶれて、一家路頭に迷うことになりますからな」
平四郎は黙って聞いていた。眼の前にいる男の住む世界が、うっすらと見えて来るのを感じていた。小原屋は、四方を敵に囲まれて世を渡っているのだ。それがこの男のなりわいだった。
平四郎は金貸しではない。明石の家に乗りこんで催促するほどの強引さは持ち合わせなかった。いくら家で厄介者視されていたといっても、旗本の子弟という矜持がある。
これに反して、明石は暮らしのためには手段をえらばない男である。平四郎とは暮らしに対する腰の据わりが違う。恥を知る者が恥知らずに勝てるわけがない。まったく埒があかなかった。
明石半太夫は、いま麹町に直心流の道場を開いている筒井三斎の道場を手伝っている。
「直心流だと?」
平四郎はうさんくさげに明石を見た。
「貴公は、肥後雲弘流ではなかったのか?」
「雲弘流さ。だが前には一刀流を手伝ったこともあるし、こういうことは何とかなるものだ」
明石半太夫はあいまいなことを言った。
万人による万人への闘争。人間の、そして、経済の、業としか呼べないものが、ここに、活写されている。この世は、世間は、地獄である。生き馬の目を抜く世の中では、したたかでなければ、生き抜くことは難しい。
さりとて、執着が怨念を呼ぶ、バッドサイクルに陥ってしまっては、生きる甲斐がない。
人を活かすために、剣がある。活かすために、切る。未練を、断ち切る。活かすために切る、というと、俳句的生活(長谷川 櫂)を思い出す。 切るのは並大抵のことではない。しかし自分も食うために、働かねばならぬ。人を活かすから、自分も生かされる。世の中は、そういうふうに、できている。
物語も後半に差し掛かると、様々な経験を重ねて、成熟した主人公のビジネス観が語られる。
平四郎は長長と仲裁仕事の披露目を言った。くみはぽかんとした表情で平四郎の顔をみている。
「つまりだ。そなたたち親子のように、進退に窮した人間を救って、何がしかの口銭を頂くのがわしの仕事でな。わしが赤ん坊を拾ったのは、双方にとって好都合だったというものだ」
「・・・・・・・・」
「安心していいぞ。小谷との話は、わしがきっぱりとつけてやる」「でも、わたくしはいまのところ、お払いする金の持ち合わせがありません」
「そんなことは心配するな」平四郎はほがらかに言った。
「そういう口銭などというものは、誰かが払ってくれるものでな。なに、誰も払わんというならそれでもけっこう。赤ん坊のために、この際は手間賃を無視してひと肌脱ごう」
己を殺し、相手に暴力を強いる生き方が、この世の大勢である。しかし、それは生きる為の、唯一の道ではない。真っ当でない世の中だからこそ、真っ当であることが、生きるための勝利条件に、なり得る。
それは、絵空事だろうか、青臭い綺麗事だろうか。フィクションに含まれる真実味から、何かを感じ取ることには、意味がある、と、思う。