「真っ当」の範囲
誰だって、あらゆる人間が、「真っ当」に生きている
正しい心で、あるべきありようを、体現している
しかしそれは、あくまで「主観的には」である
その人の視界に、自分以外の他者が入っていなければ、その人はなんの努力もせず、なんの矛盾も感じずに、真っ当でいられる
自分という存在の延長に、どれだけの範囲の人たちを含めるかによって、「真っ当」の内実はまったく異なる様相を呈する
自分にとって真っ当、なのか
自分と家族にとって真っ当、なのか
自分と家族、友人
自分と自分が属するコミュニティ
あるいは同じ属性を持つ集団
あるいは自分が属する国家
あるいはその同盟国
主語をどこに置くかによって、「真っ当」であるあり方は、全然異なる
上記は、単に空間的に拡大しただけだが、それでは実は、まったくもって不十分である
自分と異なるコミュニティを、自分の延長として見ることはできるのか
あるいは、自分と異なる属性集団
あるいは、敵対的関係にある国家
あるいは、自分に仇なした存在
「向こう側」にいる「非人間的存在」が、自分の延長であると感じることができるのか
仇敵を愛することは可能か、なんていうと、聖書みたいな話になってしまうけれども、やはり、善悪というものについて、順番を追って考えていくと、そういう問題に逢着するのである
自分の欲を肯定し、自分という存在のエネルギー効率の最適化を目指すという、そんな意識状態を維持することには、特に努力を要さない
なぜなら、生き物とは、そういうふうに進化してきたからだ
それを上手くやることに、成功した存在こそが、生き残ってきたのだ
一方で、それをうまくやりすぎると、かえって我が身を滅ぼすようにも、世界はできている
自己愛に基づく正義は、幼稚である