PMにおける6つのマイルストンは「カデンツ」である
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結局のところ、最も抽象的に考えると、プロジェクトマネジメントとは、企画→要件→設計→製造→試験→検収という、6つのマイルストンをたどっていく活動である。それ以上でも以下でもない。
しかし、世の中のあらゆるプロジェクト活動を、この型に嵌めることはできない。それもまた、厳然たる事実である。
ごく単純な例として、ゼロイチ的な新規事業や、事業構造転換なり、デジタル変革なりが、この枠組みと順序に、すんなり収まるわけがない。
しかしーーーしかし、である。単純にはこの定型に当てはまらないプロジェクト活動においても、この祖型が、活動の部分部分に、ちらほらと顔を出すのも、事実なのである。そして、結果論として整理すれば、あらゆるプロジェクトを、このように語ることができるのも、事実である。
ずっとずっと、そのことをどう解釈すればよいのか、悩んでいた。悩んで悩んで悩み抜いているなかで、ふと、これは「カデンツ」なのだと理解したら良いじゃないか、という天啓に恵まれた。
つまり、この文章で言いたいことは、こういうことである。
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このことを理解するために、音楽用語であるところの「カデンツ」が、実に示唆的である。
カデンツとは
一般に、音楽の文章の型のことを、カデンツ(ケーデンス)といいます。
1. カデンツ第1型(K1) T-D-T
2. カデンツ第2型(K2) T-S-D-T
3. カデンツ第3型(K3) T-S-T
Tはトニック: 始まりや終止の和音となります。言葉に置き変えると、主語のようなものです。
Dはドミナント: 最も緊張状態にある和音です。言葉に置き変えると、述語のようなものです。
Sはサブドミナント: D(ドミナント)を飾る和音です。言葉に置き変えると補語のようなものです。
引用
簡単に言えば、カデンツとは、コード進行のお決まり、定番のことである。このルールに従えば、音楽は、綺麗に始まり、綺麗に着地する。まさしく文章の型であり、西洋音楽における文法そのものと言える。あまたある音楽の多くは、一見そうは聴こえなくても、カデンツの法則に従っている。カデンツは、音の振動数の整数比という強力な原理に支えられている。ゆえに、普遍的なのである。
とはいえしかし、一方で、実際の音楽は、カデンツに従わないものも多い。カデンツを変形させることで独特の雰囲気を出すこともあるし、カデンツからまったく自由に、音楽を奏でることもできる。
実は、プロジェクトも、同じなのだ。
冒頭の絵で示したプロジェクトの定型は、互いにある程度十分な水準の社会性を持つ、委託者と受諾者の二者が協働するような取り組みにおいて、完全に鉄板な進行である。
しかし、現実のプロジェクト活動においては、そのような理想状態を前提とすることは少ない。
例えば
委託者が複数の人間の合議制で、意見の集約が困難
委託者または受諾者の内部組織が、多重構造になっている
委託者と受諾者が同一人物である
委託者が仮想の存在(未来にきっと現れると想定されたペルソナ)である
といったように、現実が、プロジェクト進行の鉄板を拒否する、ということがある。
(というよりも、それがほとんどである)
大事なのは、この雛形を、雛形通りに展開することではない。
大事なのは、現実にあわせて、この雛形を、自由自在に組み替えることである。
つまり、プロジェクトは、これらのマイルストンを順番に経由していくマラソンではなく、スタンプラリーなのだ。
製造から始まるプロジェクトがあったって、いいじゃないか。
実際のところ、プロトタイプがあって初めて、その企画構想が動き始める、というようなプロジェクトは多い。ここに起きているのは、設計・製造の先取りである。
それは、音楽でいえば、サブドミナントから始まる進行に似ている。
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たとえば以下のように見立てることで、世の中の多くのビジネスプロジェクトの悲喜劇を戯画化でき、色んなことが腑に落ちるように思える。
楽譜 =計画
作曲家=デザイナ、設計者、著者等
指揮者=プロジェクトマネージャ
演奏家=各種の専門的職能者
楽器 =生産活動を支援するツール
音楽 =成果物
舞台 =ビジネスモデル
観客 =ユーザ
世の中のビジネスプロジェクトの多くでは、素人作曲の楽譜を与えられた初心者楽団が、必要な楽器やパートセクションが欠けているのにすら気づかないまま、わけのわからぬ演奏に明け暮れている・・・。
それでも、なんだかんだとやっているうちに、リフがうまれ、フレーズが生まれて、音楽になっていくことも多い。それもまた不思議である。人間の心の協調性の発露なのだと思う。
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プロジェクト進行の理想形に、現実がそぐわない場合には、その計画は、理想論でなく、現実に合わせる必要がある。もちろん、あわせすぎだと単なる型なしプロジェクトに堕してしまう。現実を考慮することは大事だが、あんまり妥協してしまってはいけない。計画が現実に屈服することは、あってはならない。
現実に対して、まずは理想を重ねて、計画に落とし込む。それを話してみる。そうした行為によって現実が変化する。結果、計画の側にも変化が生じて・・・というふうに、プロジェクトは、進行するものである。
こうした過程のなかで、計画と現実の間に、ダンスのような相互作用が起きる。
最初のうちは、全然リズムが合わなくても、どうにかこうにか拍子をあわせているうちに、俄かにグルーヴが生じる。
困難なプロジェクトを、誰かと一緒になってやり抜く経験は、とても大きな連帯感と達成感をもたらしてくれる。それは、音楽やダンス、舞台演劇のそれと、極めて通底する喜びである。
ときどき、外部環境による衝撃が加わることがある。それはいわば「ブレイク」である。
型なしプロジェクトだと、そんな外乱があってもなくても変わらない、気づきすらしないかもしれないが、逆に、良いダンスが成立していたら、かえってそのおかげで、それを奇貨として、芸術性を高めるマヌーヴァを繰り出すことさえ可能である。
即興的な、ブレイクからのユニゾン。そういう瞬間に恵まれたプロジェクトは幸いである。
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音楽と実プロジェクトの違いは、実プロジェクトでは、計画(楽譜)が、何重にもメタ化できることである。
音楽の場合、楽譜に書かれたものとは、単純に、演奏されるべきものである。
一方、ビジネスプロジェクトの計画を立案する際は、計画の部分集合について、その計画の中で言及できるし、する必要がある。つまり、計画そのものが入れ子構造になっていて、いつどこで、誰がそのサブ計画を立てるのかも、計画の対象になったりする。
大規模プロジェクトの困難は、計画を立てることではない。計画を立てるには、計画の計画を立てる必要があり、そのために計画の計画の計画の計画を立てる必要がある・・・と、放っておくと、無限にメタ化していく計画行為を制御するのが、難しいのである。計画のメタ化と多重下請け構造は、無縁ではない。
別の言い方をすれば、計画を立てる(譜面を書く)ということが、すでに演奏の一部である、ということでもある。
音楽と実プロジェクトの違いは、それだけではない。実プロジェクトは、音楽と違って、誰が作曲家で、誰が指揮者なのか、という配役すらも、曖昧であることも多い。観客=作曲家といった構図を作ってしまうビジネスプロジェクトは、意外と多い。そのほとんどはグズグズになっていく。
そのような、メタ構造や配役のあいまいさを統御しなければならないということは、実に困難なことである。最終的には、政治力(≒強制力≒暴力)により解決されることも多い。
こういうことを考えると、昔のギリシアの演劇に、デウスエクス・マキナが導入された話を思い出す。
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実プロジェクトにおいては、その場に集まった人や資源、制約条件などの、所与の条件に、文句を言っても始まらないものである。もちろん、より有利な条件を獲得するための交渉や闘争は必要だが、絶対的に、必ずどこかに限界はある。
プロジェクトとは、どこまでいっても、欲望の無限集合との戦いとしての、有限設計なのである。
だからこそ、その状況を踏まえた、最高の楽譜を、その場で書ける才能こそが、プロジェクトにおける生命線である。ただ、作家(デザイナ、設計者、著者等)の生み出す概念や表象の価値や意味を理解出来る人は少ない。
ゆえにこそ、指揮者という、演奏家への通訳的存在が、必要とされる。
作家のクリエイティビティと通訳者のクリエイティビティは、まさに共創的である。
こうして考えてみると、ITプロジェクトは、設計者の扱いがあまりにも粗末なことが多いよなぁと思う。本来、設計者とは、上流で決められたものを具体に落とし込む作業者ではなく、多くの矛盾や制約を、創造的に解決する存在である。
ITベンダがその自覚を持たずに下請け根性で仕事をしてしまうと、誰も幸せにならない状況が到来してしまう。本来要件定義をしなければならない上流で、「設計」をやってしまう愚挙が当たり前のようになされていたりする。(それを「要件定義」と呼んでいたりする)
その悪弊は、ソフトウェアの提供価格を、工数ベース、人月ベースで値付けする商習慣によるところも大きいのだと思う。
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音楽のジャンルによって、指揮者の求められる役割の軽重も異なる。
毎度毎度、同じコード進行をひたすらなぞりながら、即興によりマンネリを回避する、ブルース。
テーマだけを決めて、ひたすらに変則的に快感原則を追求する、ジャズ。
ヒットソングをコピーして楽しむポップな(あるいはクラシックな)世界もあるし、ひたすら反抗を目指すパンクもある。
そのような多様性があることも含めて、音楽とプロジェクトは似ている。
実際のところ、実プロジェクトとは、作曲家も指揮者も、演奏家も観客も、みんながごた混ぜになって即興で演奏するようなものである。奇跡が起きなければ、聴くに耐えない音楽しか、奏でられることはない。
ただ、わりと頻繁に、奇跡は起きる、というのも事実で、一体それはなんなんだ、という疑問は、今後に向けた研究テーマである。