HUNTER×HUNTERへの最大限の賛辞、または「フィネガンズ・ウェイク」との相同性について
HUNTER×HUNTER408話で、モレナの怒りの対象が「奪う社会」であったことが描かれた。
それはおそらくたぶん、ほぼ間違いなく、作家自身の怒りそのものなのだと思う。
そのことについて書く人がいないので、せめてもの思いで、そのことについて、書いてみた。
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古今東西の政治史や政治思想史に触れ、また個別の政治機構の比較検討を行ったうえで、その共通項として人間社会の本質を見出すとするならば、それは「権力機構(暴力装置)に基づく上納原理」である。人間は、生まれ落ちた瞬間、初期パラメータとしての出身国、地域、所属階層、家庭における経済力が付与される。社会のなかで生きていくうえで、所属階層を向上させることが(精神的幸福はひとまず措くとして)社会的・経済的安定に直結する。その階梯を上がる手段はただひとつ。組織(の上位者)に対して、価値を上納することである。上納による貢献が認められたら、対価として、ポジション(社会的地位)と分け前(給与)が配分される。上納システムという配分原理に対して、遺伝的に違和感を覚えない人は、意外と多い。そんな人が、社会の多数派、主流派、常識人として、才覚に見合ったポジションを占めるように、世間はできている。
この原理の帰結として、人間社会における組織はかならず、代表、幹部、中間管理職、ヒラ、見習い、といった具合に、階層関係が形成される。のみならず、組織そのものも、階層的に分布する。親会社と子会社。元請けと下請け、孫請け。中央官庁と外郭団体。組織的活動においては指揮系統における上下関係が不可欠である。東洋では、古くは朝貢貿易がまさにそれが国家間で形成されたものだったし、各国の官僚機構の内部にもそれはあった。たとえば科挙制度においても、エントリー段階では情報処理能力が諮問されるが、一定以上のポジションに登ったあとは、蓄財し、上納することで位の上昇を実現した。現代日本においては、例えば書道の世界でその名残が観察される。西洋には古代ギリシア以来の民主主義の伝統があって、表層的にはイコールには見えないところもあるが、根本的には覇権主義に支えられていて、それらの複合体が国民国家を生み出し、近代産業革命ともあいまって、あまたの大量殺戮を生み出してきた。植民地主義とは、まさに暴力により国が国から奪う(強制的上納)という、とんでもない一大ムーブメントであった。
こうした階層化は社会運営における必須事項である。本来、そうしたものと無縁のはずのアカデミアの世界にも、いやそれどころか、そうしたものからの解放を旨とするような取り組みや団体においても、いつかどこかできっちりかっきり「象牙の塔」は必ずできあがる。ちなみに日本社会は、権力機構のトップオブトップを非武装化し、権力でなく威光のみを保持するという独特な構造を育んできたわけだが、世界的に見たら、かなり優しい上納システムであるといえる。
上納システムと遺産相続の概念が相まった結果として、原初的な身分制度が自然発生する。それをどの程度ハードに維持するかは、国・地域・時代により、実に多様であるが、古代インドのカースト制は(日本の江戸時代における士農工商も)まごうかたなき人間社会の祖型であった。出自による身分制度は社会に安定をもたらすが腐敗を招く。下剋上を許すと社会は乱れる。
社会システムにおける抑圧性へのアンチテーゼとして、人類は、あらゆる時代において、リベラリズムを試みてきた。リベラリズムの本質とは、あらゆる主体が平等かつ独自に意思決定すべきであり、そのためには対価を通じた仕事の等価交換が経済原理であるべきだという、まさに封建主義的世界観への異議申し立てであったわけだが、なんだかんだやっているうちに20世紀において夢見られたユートピア幻想は、共産主義の壮大な社会実験へと発展し、失敗した。現代の西側諸国は、資本主義ベースの経済で教育機会の平等、入試制度や入社試験制度を運用することで、本人の実力によって階層を超えるためのわずかな機会を提供している。あとはいわゆる、アメリカンドリームというやつで、スポーツや芸能、出版、スタートアップ起業等で己の才覚を発揮し、一発逆転を目指す道も残されている。
こうして見てみると、人間社会の歴史とは、狭義の暴力を抑止するために、下剋上のほどよき塩梅を探り続けてきた歴史そのものである、とも言える。
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この話のどこが、HUNTER×HUNTERに関係あるのかって?
ブラックホエール号は、物語の便宜上、新世界に行くための移民船として描かれているが、なんてことはない、作意としてはまごうかたなき世界のミニチュアであり、雛形である。しかも、暗喩ではなく、直喩でこれを描いている。そこにシビれる、憧れるのである。
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©冨樫義博、集英社
作家はこの物語を通じて、世界のありようそのものを描こうとしている。公権力と裏稼業の相互補完関係、といったものも、本作ではおなじみのモチーフだが、本編においては、膨大な数の登場人物を動員し、いよいよ精密に、これを描いている。
本作のエンタメとしての快感原則は、念能力バトルにあるが、哲学的テーマとしては「奪う/奪われるという非対称性から生じる怨恨と、その帰結としての葛藤関係」であり、本作を語るうえでの致命的な論点は、前者ではなく後者である。
これまで、本作は「奪う/奪われるという非対称性から生じる怨恨と、その帰結としての葛藤関係」を、対になるキャラクターとその舞台装置を通して描いてきた。
ヒソカ ↔ 受験生 @ハンター試験
旅団 ↔ クラピカ @ヨークシン
ボマー ↔ ハメ組 @グリードアイランド
キメラアント ↔ 村人 @NGL
ネフェルピトー ↔ ゴン @東ゴルトー
「奪われたことへの恨みと憎しみ」によって造型された最初のキャラクターは、クラピカだった。彼こそが、本作における作家の動機そのものである。彼と対になる人物として作られたのは、ゴンでもなくレオリオでもなく、ヒソカであった。ハンター試験において、彼は「奪うことの愉悦」を表象した。表裏一体の二人が執着したのが旅団でありクロロであったわけだが、魅力的に描いているうちに、彼もまた、奪うものから奪われた者に変わっていった。きっと、どんなに悪逆無道なキャラクターも、描いているうちに、情が移ってしまうのだろう。
ともあれ、それやこれやの「やり直し」と「繰り返し」の果てに、いよいよこの継承戦編においてこそ、何度も繰り返し描かれてきたこの構図の終着駅を目指そうか、という勢いで「ツェリードニヒ(が代表する上納システムの暴力性) ↔ モレナ(とその仲間たち)」が描かれている。
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常識的な判断においては、騙し、奪うものが「悪」で、守り、分け合うものが「善」である。
しかし本作は、騙され、奪われるものはただただ「弱」なのだと喝破する。
そのことを、何度描いても足りなくて、そこで生まれたのがモレナであった。
冨樫先生が、どうしてこのテーマに固執するのだろうかというと、やはり、作家自身が、こうした葛藤関係の当事者であるからなのだと思う。
先述した通り、上納原理に対して、遺伝的に違和感を覚えない人も多い。
が、もちろん、その逆の人もいる。
作家(クリエイター、創作者)こそが、そうした社会システムに馴染みにくい人間の、まさに筆頭である。
世間は、作家から、惜しみなく奪うように、できている。
現代アメリカのしたたかさとは、自由と平等を国是としつつ、下剋上に成功した人間を、ただちに体制に組み込み、安定を図る方法論の完成度が高い、というところにある。スポーツや芸能、出版、スタートアップ起業等で己の才覚を発揮し、いざ一発逆転を実現したとしても、必ずその果実は「広告宣伝、大衆動員機構」に回収される。
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正義と力が同義であり得る以上、正義と悪もまた同義であり得る。アンパンマンとバイキンマンは、どちらか一人では存在できない、対生成・対消滅する関係性にある。
HUNTER×HUNTERという世界観が非常にリベラルなのは、闘争の場を、互いに合意されたルールと条件に基づく交渉であると規定しているところである。そこに出自は関係ない。もちろん、思考力という、天賦の才や、向上心や努力する才能が求められる。それは不公平だというかもしれないが、本作はチーム戦も認めている。
そのなかで、ボークセンというキャラクターは、世間における善良な常識人、そのなかの優秀分子の代表者である。常識的に見れば、彼女の倫理観は、正常で、善良である。しかし、その善良さは、社会システムの抱える根本的な暴力性に裏付けられた善良さである。たまたま自分が与えられた環境が、表層的に善的で平和であったとて、社会はどこかで必ず繋がっている。リンクを辿っていったその先に、凄惨な悪が存在する。そのことに目を瞑り、体制維持に力を貸すのは、果たして善と言えるのか。エンタメを通じて、作家は読者へ、非常に困難な問いを突きつけている。
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©冨樫義博、集英社
2人のカードゲームが理不尽な2択をモチーフにしているのは、言うまでもなく本作の必然だが、408話で「no」と「生還」の2枚を残しているのは、当然ながら、作品の成熟を表していて、第一巻を思いだすと、思えば遠くへきたものだと感慨深い。こうしたメタ化は、実に仏教的だとも思う。
ボークセンというキャラクターの面白さは、徹底的に非日常を指向する優秀な頭脳、というコンセプトである。本作のなかで、こういう人物は、これまで一度も出てこなかった。なんとなく、集英社のエリート社員を観察しているなかで、生まれたモチーフなのではないかと推察する。ボークセンに限らず、第4王子私設兵の面々全体に、そんな雰囲気がある。彼らのイラストレーションから漂うのは、創業家の子息と同期入社してしまった高学歴・出世コース若手社員、という風情である。彼らが青雲の志に燃えず、日和見を決め込むところも含め、実にさもありなん、という雰囲気がある。
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©冨樫義博、集英社
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エリート社員、という言葉をきっかけにして、もう少し論を発展させるとするなら、この世間というものは「上納原理」「上納原理に反抗する原理主義的リベラリズム」「上納原理をカモフラージュするための懐柔的リベラリズム風味」の三つの文脈を理解しなければならないなぁと思う。
例えば企業組織の内部における、組織開発の文脈において、リベラルな価値観は、常に進歩的なものであり、あるべきものであるという前提のもとに、各種の議論が展開される。「民主化、DE&I、ホラクラシー、アジャイル、ティール組織」といった各種の用語は、基本的に、「上納原理に反抗する原理的リベラリズム」を指向して発想されてきた。その運動を担う当事者もその気になってその類の活動に従事することがほとんどである。しかしその多くは「上納原理」を現実として受け入れる意思決定者らの忖度圧により抑圧され、いつしか「懐柔的リベラリズム風味」に変質していく。それと対照的なのが、「識学」による「リーダーの仮面」的な、思考停止型の中間管理職ロールモデルや、戸塚ヨットスクール的な開き直り型の古典的マッチョイズムであり、こちらはリベラルな風味を最初から放棄しているぶん、いっそ清々しいほどである。(もちろん、善し悪しは措くとして。)
こうした構図は、国単位の動向とも相似形を為していて、敗戦ともに押し付けられた日本国憲法は、どうやらそれを作成した当事者たちは「原理主義的リベラリズム」を大真面目に夢見ていたようなふしもある(もちろん確かなことを確かめるには適切な一次資料に当たる必要があるが)が、しかし、主観的にいかに理想主義的であったとて、実際のところはそれは「上納原理をカモフラージュするための表層的リベラリズム」の文脈に回収された(ないし回収する意志が米国の内部にあった)ことも確かだし、実際のところ、日本における戦後民主主義は「懐柔的リベラリズム風味」としてしか機能しなかった。例えば長らく初等教育の場において「個性を大事にする教育」が標榜されてきたものだが、その内実をしかと語ることができる人は、これまで皆無に近かったし、おそらく今後も同様である。
ここでもう少し話を飛躍させるなら、SMAPという平成を代表する国民的アイドルグループが「夜空ノムコウ」という戦後の日本思想状況に対して極めて批評的かつリアリスティックなスタンスを持った楽曲と「世界に一つだけの花」という極めて戦後民主主義的な楽曲の両方を扱ったのは、興味深い現象であった。「あれから僕達は何かを信じてこれたかなぁ」という言葉の切実さと、「もともと特別なオンリーワン」というおためごかしの対比は、本稿におけるテーマを考えるうえで、見逃すことができない。彼らの活動に終止符を打った会見の抑圧力もまた上納原理を象徴している。
この点を考えるにあたっては、押井守と鈴木敏夫&宮崎駿、という視座も、一つのヒントを与えてくれる。押井氏は、魂の自由を守るため、大ヒットしなくても食える表現者を体現した。対して鈴木・宮崎両氏は、価値ある作品を真っ当に作り、残すために「売れる作品を継続的に生み出せる会社」を作った。結果、社会におけるジブリは、リベラルな価値観を標榜する灯台のようなポジションにあるが、ジブリそのものの内部は実に専制的であり、押井氏のこれに対する批判は当を得ているように思われる。クリエイターの才能を守り、作品の価値を守ることを社是として発足した組織が抑圧的なものになってしまうという矛盾。
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出自によらない身分の平等。
貢献に基づく配分の公平。
人類はどちらを目指すべきなのだろう?
もとい、どちらであれば、達成可能で、かつ、達成することに意味があるのだろう?
そもそも、人間を定義するのが困難である以上、そのように問うこと自体が、ナンセンスなのかもしれないけれど。でも、それを問うことをやめた瞬間、力のあるものが、好き勝手に奪うことが、正義としてまかり通ってしまう。それでいいのか?
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本作の、エンタメの部分にも言及しておかないと、フェアでないので、少しだけ付言する。継承戦編の楽しさは、様々なヒット作の引用、オマージュである。ONE PIECE、進撃の巨人、ワールドトリガー、呪術廻戦、ヒーローアカデミア、キングダム、3月のライオン等、様々なヒット作がいろんな形で引用されているのは、単純に見ていて楽しい。継承戦編は、他の作品だけでなく、HUNTER×HUNTERの過去編をも数多く引用している。もちろん、念能力という体系の原理原則や制約も考慮したうえで、個々の交渉が詳しく考察されながら展開していくのも、丹念に追えば追うほど楽しい。
商業誌を代表する看板作品として、人類学上極めて重要なテーマを中心に据えつつ、これだけ重層的に意味を重ねていくという気の遠くなるような芸当を思うと、柳瀬尚紀による「フィネガンズ・ウェイク」評を思う。おそらく、フィネガンズ・ウェイクにも、HUNTER×HUNTERと同じぐらいの「読む悦び」があるのだろうなと思う。
「ジェイムズ・ジョイスと冨樫義博」
意外な組み合わせと思うかもしれないが、十分ありえる論考テーマではないかと思う。
それを証明するためには、まず、ジョイスを読まなければならないけれど。