1+1=1になる数学
世の中には、1+1=1になるものが、意外とたくさんある。
例えば、スパイス。あるスパイスと別のスパイスを混ぜると、あら不思議、渾然一体となったひとつの香りがする。知る人ぞ知る名店「デリー」の田中社長によると、カレーを食べて、どのスパイスを使ったかがわかるようでは、駄目なのだという。すべてのスパイスが混ざりあい、響き合い、ひとつのスパイスのようになるのが理想である。
並の料理人では、そういうふうにはなかなか調理できないものであるけれども。
ウィスキーも、混ぜて初めて感じられる、馥郁たる香り、というものがある。シングルモルトにも良さはあるが、ブレンドにはブレンドのよさがある。コーヒーやカクテル、ジュースなんかもそうである。
音楽や楽器の世界も同じである。ソロでもトリオでも、オーケストラでも、演者が何人いたとしても、ひとつの音楽になる。音波については、重ね合わせがグラフになるから、わかりやすいといえば分かりやすい。どんな波形でも、重ね合わせると、必ずひとつの波形になる。だから、レコード針は一本で足りるし、FM/AMラジオも、周波数をひとつだけ決めれば、受信することができる。途中で機械の力も借りているが、最終的には人間の耳がフーリエ変換し、脳が逆フーリエ変換しているだけのことである。
色もまた、1+1=1の世界の存在である。色と色を混ぜると、ひとつの色になる。正直なところ、この仕組みについては、長年勉強しているが、いまいちよくわからないでいる。(実際は、3つの錐体細胞が光を分解し、脳で再統合している、というところまではまぁ、理屈ではわかるのだが、どうして聴覚と全然違う仕組みなのかが、よくわからない。そして、光の三原色というのが、人間にとっての原理なのか、もっと普遍的な原理なのかもよくわかっていない)
ともあれ、色のもとは、太陽である。水素原子同士が核融合し、電子が震えて、電磁波となる。非常に幅の広い周波数が重なり合って、太陽光になる。人間の知覚はそれを基準にしているから、光、という名の「ひとつの色」に見えている。
次は、少し発展形を考える。
例えば、ワインと食べ物をあわせて初めて一つの食事になる。両者を、食べる前に全部ミキサーで混ぜてしまっては、食事にならない。コースとして仕立てて饗する。空間を仕立て、花や絵をあしらい、客を呼ぶから、一期一会が成就する。
音楽もそうだ。音を同時に出すのではなく、時系列上に分布させるから、ひとつの作品になる。
絵もそうだ、色を1点に混ぜるのではなく、平面上に分布させるから、ひとつの作品になる。
言葉をひとつ、ふたつと足して、ひとつの詩になる。
第一章に、二章、三章と書き連ねて、ひとつの小説になる。
粘土をこね、つなぎ合わせて、立体的に構築していくと、彫刻になる。
春夏秋冬の思い出を重ねて、一年の思い出になる。
まったく異なる形の骨や肉、内臓や神経を組み合わせた結果として、ひとつの身体が出来上がる。
組織やチーム、法人もまた、複数の人でひとつの主体を作り上げる。
これらもまた、1+1=1である。
次は、更なる発展だ。
過去に詠まれたすべての歌があるから、新しい歌が生まれる。
全ての季語があるから、ひとつの俳句が成立する。
あらゆる映画は、映画の引用でできている。
すべての歴史があったから、今日という一日が紡がれる。
数えきれない試行があったから、将棋がひとつのルールに収束する。
ひとつのルールが数えきれないほどのゲームを生み出す。そのなかのひとつを、一生に一度の大一番として味わう人がいる。
本当は、人間が何度生まれ変わっても読みきれないゲーム木の膨大な分岐のなかに、たったひとつだけの最善手が、隠されているのだけれども、2023年現在、人類はそれを、どうしたって見つけることができないでいる。
1=∞であり、∞=1である。だからこそ、1+1=1となる。1+1=1とは、そういうことである。
問題は、それを、人間の脳みそが、認識することができる、ということである。
だからこそ、人間は、知識や情報を抽象化して記号に圧縮することもできるし、それを解凍して現実を生み出すこともできる。
単純な波長にはすぐ飽きる。
無秩序な波長はわけがわからない。
多様な波長が響きあっていると、気持ち良い。美しい。
少しだけ異質な波長が混じったり、少し歪ませると、厚みがでる。
個性的な波長が突き抜けていると、尖っている。
波長と波長が噛み合うと、しっくりくる。
なぜ、こういうことが起きるのか。
なぜ、そういうことが、わかるのか。
なぜ、なぜそうなのかが、わからないのに、私たちの身体は、それがわかるのか。
もしかしたら、本当は、なぜそうなのかは、わかっているのかもしれない。
(猫が塀から飛び降りるとき、ニュートン方程式を意識的に解きはしないが、行動しながら解いている)
だとすると、どうしてわかっているのに、わからないと思うのか。
しかし、なぜ、原理がわかっていないのに、それそのものを、生きていられるのか。
考えてみると、不思議である。
こういうことがわかる存在とは、人間だけではない、という気がする。
犬猫や哺乳類は、かなりの部分で感覚を共有している感じがする。昆虫その他の動物にしても、微生物やウィルスだって、そうじゃないとは言い切れない。植物は言わずもがなである。さらにいえば、鉱物等の無生物にも、気象のような、形のない現象だって、こういうことは、わかっているのではないか。だとすると、人間が生み出した人工物であるところの、蒸気機関やガソリン機関車、あるいは計算機も、同様なのかもしれない。
例えば宮沢賢治という人は、そういうことを作品として、表現していたのではないか。
例えばゴーシュという人は、宮沢賢治その人のことだったのではないか。
そして、本当は、生きとし生けるものは、宮沢賢治なのではないか。
こういうことを考えていると、もしかしたら自分という存在は、残留思念のようななにかで、どこかで誰かがそれを再生しているだけなのかも、なんてことを、空想する。現実に、物理的に肉体があって、それが脳みそに電位の変化を与えていて、それが意識の正体であることは、どうも、確からしい。だとすれば、その「現実」と「自分という存在は、残留思念のようななにかで、どこかで誰かがそれを再生しているだけ」という現象は、同値であってもおかしくない。
3歳だか5歳だかのころ、「僕を僕と思う僕という存在が、一体どこにいるのだろうか」と、布団のなかで考え始めてしまうと、無限ループに落ち込んでしまい、わけがわからなくなって怖くなってしまうことが時々あった。そして、この世界の秘密を、どうにかして知りたいと思っていた。
もしかしたら、自分という存在は、実はどこにもなくて、世界は世界でしかない、というのが、世界の秘密なのかもしれない。あまりにも無造作に投げ出されているせいで、秘密に見えない秘密。
話が横道にそれてしまった。(いや、もしかしたら、本道に迷い込んでいたのかもしれないが)
それはさておき、近頃は、長浜さんと、音符や音楽、楽譜の話をすることができて、とても嬉しいのだ。多様性とは、みんなが違っていて、かつ響き合い、あらゆる構成要素が己の役割を見出し、発揮している、という状況でなければ、成立しない。おそらく、自分が自分の属するオーケストラにとって、なくてはならない存在だと感じることができれば、それだけで人間は幸せなはずなのである。そして、本当はすでに、そういう存在であるにも関わらず、そういう存在であることを感じられないでいる、ということが、凡夫ということである。
そして残念ながら、多くの企業組織やプロジェクト組織は、凡夫の製造装置である。
#プロジェクトとは 、自分(たち)でなければ生み出すことのできない、意味のあるなにかを、この世界にむけて贈与するということである。それは、すべての執着を絶ち切り、全力を尽くすことができる「いま、ここ、目の前、この瞬間」に、一期一会する、ということである。 しかしそれは、言葉で言うほど簡単なことではない。その瞬間を、つかまなければな、ない、ということは、常に、取り逃してしまうものだから、である。逃した瞬間にも、意味はある。修行とは、そういうことである。