組織変革を成就せしめる要因について
日経ビジネスの記事における「パーパスだけで企業文化変えられず」というタイトルが印象的だった。
https://gyazo.com/e8f33e39f6eb01f7ed93f79c4d16bd8e
このタイトルは、パーパスだけで、企業文化が変えられるはずだと思っていた、そういう期待があった、ということを含意しているわけだが、そんなお花畑な世迷い言を、この記者は信じていたのだろうか。
だとしたら、この記者は、経済記者の資質ゼロである。
あるいは、そうした期待が世間にあったが、裏切られた、ということを表したかったのだろうか。だとすれば、櫻田氏についても、SOMPOについても、認識が甘すぎるので、やはり、経済記者の資質ゼロである。あるいは、こういうタイトルにすることで、ページビューが稼げるという判断によるものだったのだろうか。だとしたら、編集者のセンスがゼロである。
個人的な印象としては、櫻田氏は、意思もカリスマ性も、正義感も行動力も持った経営者だった。短い期間で、保険会社、というあり方を変えたくて、介護事業に進出し、海外展開も積極的に進め、テック企業との関わりも深めていった。そうした一連の取り組みのなかで、パーパスというキーワードに機敏に反応し、旗を振って取り組みを進めていた。お話しされる内容はしごくまっとうだったし、いかにも官僚的なサラリーマン社長とは違う雰囲気があった。
大企業のn代目社長には2タイプある。就任した途端に、俄然、変革の必要性に気づき、猛回転するか、名前も覚えられないように、じっと静かにするかの、どちらかである。
櫻田氏は前者であり、そのなかでも、すごくキュートでチャーミングな人だ、という印象があった。
つまり、外から見ている分には、まさに変革の旗手というに相応しいイメージがあった。
まぁ、仄分するところによると、ごく一般的な社員からは「新しいもの好きの、軽薄な、裸の王様」といったイメージだったようだけれども。笑
(どの会社だって、一定以上の規模になれば同じようなものだし、今回の本筋とはズレるので、本論では、そのことは割愛する)
さておき、氏の語っていた変革の理想像については、共感するところが大きかったから、今回の顛末については、単純に、残念だなぁと思う。
今回の一連の流れを通して、改めて思いを深くしているのは2点である。
① 組織の代表者は、組織を変革することはできない
組織の代表者は、組織を変革することはできない。外部のコンサルやベンダ、つまり他人によっても不可能であることは、言わずもがなである。変革とは、当事者が、自分自身の手によって、成さねばならない。
これは、あらゆる企業組織に共通するテーゼである。組織変革や業務変革に関わっている人間はみな、ここから出発するしかないのだ。
大組織が、トップの主導で企業変革に取り組むと、往々にしてどの企業でも、似たりよったりの動きが展開される。
そこに予算がつけられて、専門の部隊が編成され、調査レポートを書かせることから始まる。本格的にやろうということになると、また外部の専門ベンダと一緒になって、なにかしらのフレームワークやツールが導入される。効果をKPIとして計測し、役員会で報告させる。参考的なモデルケースを見つけ出し、インタビューし、内外に宣伝し、その取り組みがいかに投資意義を持つかを説得して回り、経済団体からの顕彰を集めて周る。といった、一連のプロセスである。
筆者は、SOMPOのなかで何が起きていたかを知る立場にはないが、まぁ、だいたい似たようなことが起きていただろうことは容易に推察される。(なにしろ、日本中のあらゆる大組織で、似たようなことを延々と繰り広げているのだ)
予算をつけて、人をあてがい、権限を付与する。ベンダにも協力させる。取り組みの意義や投資対効果を明らかにする。実行計画を立て、結果を計測し、改善し続ける。PDCAを回す。こうした発想は、自然である。
しかし、こうしたことは、ルーチンワークにおいては合理的な取り組み方であるわけだが、プロジェクト状況においては、特に変革的なものであればあるほど、逆の効果を発生させるから不思議である。こうした一連のプロセス自体が、変革に対する最大の抵抗になってしまうのである。もっといえば、組織トップの主導による組織変革、という構図の作り自体が、すでにその時点で、筋が悪いのだ。
組織変革とは、そこに暮らす人たちの、行動の規範が変わる、ということである。
以下のスライドは、小坂井敏晶「矛盾と創造」を参照しながら作ったものであるが、本書のなかで、思想の変革が、集団のリーダーによって主導されるはずだというホランダーの説に対する、モスコヴィッシからの反論が紹介されている。
https://gyazo.com/70fe2383c71693ca0c37cf0b4e3fc90b
これは、変革に対する哲学的なアプローチでの考察であるが、実務的な観点から見ても、まったくもって異論がない。
企業組織における変革への取り組みが、トップによって主導されると、何が起きるのか。その場に形成されるのは、変革を生み出す取り組みではなく、「変革を作りたい主体者がいる、という文脈によって発生する、お金や機会、評価等の社会的資源の分捕り合戦」である。
その戦場に参加する関係各位は、獲得したい資源に見合う貢献をしているのだと、説明し、説得せねばならない。しかし、各自がそれに血道をあげればあげるほど、「なにも生まれない」という現実だけが、進行していく。
つまりそれは「変革の夢の抜け殻」みたいなものである。
現場における事業活動で、汗水流して稼いだ利益を、抜け殻に注ぐことほど虚しい話はないが、ひとたびこうした構図にはまりこんでしまうと、抜け出すことが難しくなるから恐ろしい。蟻地獄みたいな話である。
② 精神的なツールでは、組織変革は実現できない。
基本的には、いわゆるバズワードを変革のきっかけにする、というのは、発想としては自然である。新しい言葉、急沸騰ワードというのは、それだけで、人の注意を惹きつける力があるからだ。しかし、ビジョンとか、クレドとか、ミッションビジョンバリュー、パーパス、はたまたタックマンモデルやら成功循環モデル、ホラクラシーやティールなど、手を替え品を替えされてきた組織開発概念の、改めての限界が示されたように思う。
ついでに言っておくと、共創、伴走、対話、アジャイル、1on1、デザイン、コーチング、このあたりの言葉についても、軽々しく持ち上げてきた組織開発屋の態度も、反省があって然るべきである。
人間の行動は、ビジネスモデルに規定される。それは、ある側面においては、会社の内規や上司の言葉よりも、強制力がある。自己啓発的な言葉の力で、日常を変えることには、限界がある。それが、現実である。今回、改めて浮き彫りになったのは、そういうことである。
これは、組織開発を仕事にするあらゆる人間にとって、看過できない事案であるはずだが、それを深刻に認識している人はどれくらいいるだろうか。
今回明るみになった一連の不正行為は、個人個人の意思によるものというよりも、事業環境やビジネスモデルから生じる圧力の結果、生じ、慢性化したものであった。
現場において、ひとたび倫理的におかしい行動が根付いてしまっては、いち個人の力では、なかなかそれを改めることは難しい。それを改めようとする言葉が、綺麗事であればなおさらだ。
人間の認知システムは、目の前にあるものを、受け入れるようにできている。
SOMPOは、文化や風土を変革したかったわけだが、それをするためには、そもそも事業の構造を、そして、それを支える業務プロセスや情報システムも含めて、変革する必要があった。
いや、櫻田氏のやっていたことや発言を外から観察すると、その全てをやろうとされていた。その道半ばで、今回のことがあった。さぞ、無念だったことだと思う。
今回のことから学ばなければならないのは、あれだけの巨大な組織を変革する、ということが、いかに難事業か、ということである。(まぁ、こういうふうに言ってしまえば、こんなに当たり前の話はないんだけれども)
一人の人間の、人生を賭した大勝負に対する論評のあり方として、冒頭の日経の記事には、怒りを覚えざるを得ない。何を阿保な、呑気なことを、上から目線で、偉そうに言っているんだ。
実際のところ、メディアや広告のなかで、カルチャー変革だけでなく、デジタル変革や事業変革など、変革という言葉が、昨今、そこかしこで使われているわけだが、そもそも、そういう言葉を、もてあそぶべきではないのだ。「変革の必要性」がメディアの論理で謳われ、「変革への手段」がベンダの論理で担がれる。事業会社が、無反省に次から次へと新しいネタを試食しては、飽き、棄て、次のネタに食指を伸ばす。
そういう馬鹿馬鹿しいことが、まことしやかに行われているのが、この国の経済の現状である。
変革という言葉を軽々しく使用する人間には、変革は起こせない。
結語として
この社会が、どこかおかしいのは確かである。変わらないでいいわけがない。しかし、組織の変革を語る人間は、その前に、己を変革しなければならない。
つまりは単純に、そういうことなのだと思う。
何を変革すればよいのか。
実は、話は、ごく簡単な話なのである。
とにかくお金を回さなければ、とにかく仕事を回さなければ、とにかく顧客や上司から良い評価を得なければ、自分や自分の会社が、部下が、その家族が、この社会から落伍してしまう、という恐怖が、虚構であると、悟れば良い。
収入を増やし、支出を減らして、リスクに備えて貯蓄し、自己投資を惜しまず常に新たな事業を模索して、あるいは蓄積した財産は、財テクも成功させ、資産を増やさなければ、いつかどこかで行き詰まってしまったときに、どうにもならなくなってしまうかもしれない、という不安が、虚構であると、悟れば良い。
ビッグモーターを中心とする各種の不正行為は、そのような恐怖や不安に駆動され、怠惰の奴隷と化した従業員と管理職、そして他ならぬ顧客たちが、よってたかって作り上げた現象であった。
これは、sompo一社の問題ではなく、保険業全体の問題でもあり、もっといえば別の業界だって構造的には同じ問題に直面しているのであって、つまり、今回明るみになり、批判されたことは、そもそも我々の社会全体の問題である。
(もちろん、通常は、ちゃんとした倫理が働くので、あんなにひどい状態に至るのは、珍しいことなのだ、とは思いたいが、実際のところは、そうとも言い切れない、かもしれない)
日経のようなメディアが他人事のように呑気に論評するなど、愚の骨頂も愚の骨頂、ちゃんちゃらおかしくて臍から茶が沸いてしまうぜ、という話なのだ。
価値の作り手、つまり、あらゆる働く人間を、よってたかって競争させて、買い叩くのは、おかしい。
もちろん、よってたかって保護し、甘やかすのも、おかしい。
真っ当に働くこと、つまり目の前の顧客に、誠実に対応し、ベストを尽くし、ちょうどよい対価と交換すること。そこにだけ意識を集中して、年間の予算計画やROIといった数字に踊らされないように、ほどほどに付き合うこと。ノルマを課し、アメとムチで上から目線で指図を、したりされたりするような、馬鹿なフィクションは、即刻、やめること。
ただ、そういうことだけで、よい。
会社や社会の全体を変えるために、その全体にアプローチする必要はない。
まずは、いち個人が、虚妄の恐怖や不安から、目を覚ましてみたらいい。
それは、金槌が水に飛び込むようなもので、これほど難しい話もないのだが…
同時に、これほど簡単な話も、ないのだ。
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最後に、櫻田氏の話をもう一度考えてみると、やはり、介護だ、デジタルだ、ということではなく、本業から始める、ということが、唯一の勝利条件だったのかもしれない。
事業の外堀りや新領域の方が、手がつけやすいわけだが、そこを形にして、改めて本丸を、という構想は、やっぱり、うまくいかないのではないか。
変革を目指すにあたって、代表者の演じることができる役割とは、口当たりの良い、そして耳触りのいい変革構想を吹聴することではなく、みんなが嫌というほどわかっていて、口にできない、目の前の矛盾が、そこにあるということを、率先して認める、ということであるように思える。
例えば、もしかしたら昭和の日本社会が変革されたのは、まさに天皇陛下の玉音放送の賜物だったのかもしれない。みんなが耐え難きを耐え、忍びがたきを忍ぶことができるためには、みんなの代表者が、認めがたきを認めちゃう、ということが、必要十分条件なのではないか。
日本社会は、トップに対して「権力なき権威」であることを求める。そして、プロジェクト状況が極まったとき、権威は、権力よりも、人を動かすのである。
そのように見立てると、sompoにも、起死回生のチャンスがあるということになるわけだが、櫻田氏がそれを行使できたら、まさに天晴れなのだけれども…
この教訓は、他のあらゆる経営者にとって有益だと思うのだが、いかがなものだろうか。